グループリーグ3連勝の東京と敗退したリオ。五輪代表は何が変わったのか (2ページ目)
それでも一敗地にまみれた記憶が強いのは、「勝てば官軍、負ければ賊軍」でグループリーグ敗退に終わったからだろう。
「世界の修羅場を経験していない監督と選手が集まったチームでした。そこで、"最初につまらないミスをしたら痛い目に遭うぞ"と思い知らされた。ただ、急成長したチームだったし、実力以上のものを出して世界への可能性を示してくれたと思います」
チームを率いていた手倉森誠監督はそう語っている。つまり、発展途上のチームだった。遅咲きの世代だったとも言えるが、Jリーグのクラブで定位置を確保するのが遅れ、経験の乏しさがプレーの波として出たのだ。
リオでは10番を背負った中島翔哉でさえ、所属するFC東京では出場機会が乏しく、当時J3だったFC東京U-23でのプレーを余儀なくされていた。センスは抜群でも、屈強な相手との場数を踏んでいない。そのせいで、試合ごとにプレーが不安定だった。コロンビア戦ではエリア外から同点ゴールを決め、ドリブルもパスも注目を浴びたが、ナイジェリア戦、スウェーデン戦は空回りしていた。
世界どころか、Jリーグでもようやくポジションをつかみかけたという選手が多かった。試合経験の足りなさは明らかで、その結果、流れに翻弄されがちで駆け引きを苦手とし、ゲームマネジメントで拙(つたな)さが出た。
ナイジェリアが試合当日に現地到着した初戦は、優位なはずが、入り方は悪く、自由な攻撃を許してしまった。食い下がる攻撃陣は賞賛に値したが、後手を踏む形で5失点。コロンビア戦もオウンゴールを献上するなど、浮足立っていた。
オーバーエイジの3人(興梠慎三、塩谷司、藤春廣輝)が経験を伝えるはずだったが、足を引っ張る場面もあり、チームとして未熟さが際立った。そのオーバーエイジを含め、選手選考で苦しんだ。大会直前で久保裕也は所属クラブが派遣を拒否するなど、欧州組の招集も困難だった。
少なくとも最強の布陣ではなく、選考もズレがあった。FC東京で複数のポジションを担当していた橋本拳人は、メンバーに入っていない。そのダイナミズムや判断の良さは、当時も抜きん出ていた。橋本は今やロシアのロストフで得点能力も開花させ、日本代表では遠藤、田中碧とボランチの座を争う。
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