3連敗の代表でベストプレーヤーだった内田篤人。逆境と無念をバネにした北京五輪世代 (2ページ目)

  • 小宮良之●文 text by Komiya Yoshiyuki
  • photo by AFLO SPORTS

 もっともチームとしては、予選もやっとのことで勝ち抜いていたし、野心だけが先行していたとも言える。中心になっていた本田は大会前に海を渡ってオランダでプレーし、自信を深めていたが、所属チームのVVVフェンローは不振で2部降格が決定。中田英寿の後継者のようなパーソナリティを見せるものの、実力は追いついていなかった。

 不振の北京五輪で、ベストプレーヤーは内田だった。彼はそこから放たれた矢のような輝きを見せた。2010年夏に満を持して移籍したドイツのシャルケで、日本人初のチャンピオンズリーグ、ベスト4を経験。2014年の惨敗したブラジルワールドカップでも、チーム最高のプレーを見せた。しかしケガを押しての出場で翼をもがれてしまい、眩い閃光を残してスパイクを脱ぐことになるのだが......。

 選手たちは、選ばれた者だけが立てる舞台に、代償を覚悟して挑んでいる。例えば、北京でエースと目された李忠成は、ほとんど最悪のコンディションだった。

「自分が世界を変えてやろう、という思いでいました。ただ、気迫でJリーグの連戦を戦い続けた結果、左ひざの半月板を大会前から痛めて水がたまる状態で、全力疾走どころか、ジョギングでも痛みに顔を歪める始末でした」

 拙著『アンチ・ドロップアウト』(集英社)の取材で、李はそう明かしていた。

「大会直前に行なわれたアルゼンチンとの壮行試合で、半月板はべろりとはがれていましたね。"こんな状況の自分を選んでくれた反町(康治)監督に恩返しを"、と、その時は思っていましたよ。自分は本大会まで後がないという気持ちで戦い、チャンスを与えてもらった試合でゴールをして、また使ってもらって......でやってきました。だから逆境には強いほうというか、"北京では出たら決める"、そればっかり考えていました」

 アメリカ戦は途中出場、ナイジェリア戦は先発したが、得点はできなかった。失意の内に帰国。ドクターの検査を受け、「左ひざ外側半月板損傷で全治3カ月」と診断された。

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