3連敗の代表でベストプレーヤーだった内田篤人。逆境と無念をバネにした北京五輪世代 (3ページ目)
◆「みんな圭佑にボールを集めていた」豊田陽平が代表に定着できなかった理由
その無念さが、ストライカーの野性を鋭くしたのかもしれない。
李は、アルベルト・ザッケローニが率いた代表の一員に選ばれている。2011年のアジアカップでは決勝で劇的なボレーを決め、一躍スターになった。その後はプレミアリーグ挑戦や浦和レッズでの戦いを経て、今シーズンは京都サンガのJ1昇格にかけている。
「悔しさをプラスに変えていくしかない。僕はサッカーという筆でしか、生き方を記せない人間だから」
李はそう語っていたが、ボールを蹴って人生を示している。
そして李と交代で入って、ナイジェリア戦で日本の大会唯一の得点を記録したのが豊田陽平だ。オフサイドラインギリギリでパスを受けると、GKとの1対1を冷静に流し込んでいる。
「北京の頃は、考えずにプレーできていた気がします。ゴールで気分が乗り、またゴールする、みたいな。昔の自分はもっと刺々しく、後先考えず、ガムシャラだった」
2011年時の取材で、豊田はそう語っていた。
「五輪では宣言通り、ゴールはできました。でも、脚光を浴びて調子に乗る、というほど注目もされなくて(笑)。感覚的には、選手権でのゴールやJリーグでのゴールとたいして変わらない。ただ、北京から日本に帰ってきた時、代理人を通じてオランダへの移籍話もあった。五輪後は自分自身がエネルギーに満ちていて、"試合に出たら点が取れる"と確信があり、海外志向もあったから悩みました。ただ、自分はまだシーズンを通してJ1でやったことがなかったので......」
結局、豊田は当時J1京都サンガに完全移籍し、失意のシーズンを送ることになった。しかしJ2サガン鳥栖で再起を期すと、J1リーグ昇格の原動力となって、J1リーグでも得点王を争う。そしてザッケローニ、ハビエル・アギーレ、ヴァヒド・ハリルホジッチと3人の代表監督から招集を受けた。海外に羽ばたくのではなく、鳥栖というクラブの礎になって、彼はその名を上げたのだ。
「ゴールで周りが変わり、自分も変わる。僕は子供の頃からその繰り返しで成長しました。ゴールはいつだって、飛躍を遂げるきっかけで、オリンピックもそこは変わらない」
五輪で一矢を報いた豊田の言葉だ。
フォトギャラリーを見る
3 / 3