トルシエ流と名波浩の存在――
史上最強の日本代表はこうして生まれた (4ページ目)
とはいえ、このアジアカップで際立つ存在感を示した名波も、実はこれがおよそ4カ月ぶりの日本代表選出。加えて前回の招集以前にしても、必ずしもトルシエと良好な関係が築けていたわけではなかった。
1999年6月、パラグアイで開かれたコパ・アメリカに、日本が招待出場したときのことである。
0-4と大敗したパラグアイ戦で、名波は先発出場しながらハーフタイムでの交代を命じられた。自身のパフォーマンスは悪くなかったと感じていただけに、本人にとってはおよそ納得し難い交代である。
それでも名波はくすぶった不満を抑えつつ、試合後はドーピング検査の対象となっていたため、ひとりドーピングルームに詰めていた。すると、壁一枚を挟んだ名波の背中で、たまたまトルシエの囲み取材が始まった。
記者の質問にあれこれと答えるトルシエ。そのなかのひと言に耳を疑った。一般に「名波は一生リーダーになれない」と言ったと伝えられる発言である。
「そんな言い方じゃなかった気はするけど、あいつを中心にはチームを作れない、作らない、みたいな。もうちょっと強い言葉だったけど、そんな感じの話でした」
それを聞いたときは、もちろん腹が立った。しばらく怒りは収まらなかった。
だが、このアジアカップに必要な戦力として呼んでもらったときには、もう引きずるものはなかった。それどころか、再び選んでくれたことに感謝すらしていた。
イタリア・セリエAのベネツィアで1999-2000シーズンを過ごし、その後もヨーロッパでプレーできる道を探していた名波。ところが、移籍先は見つからず、アジアカップの登録メンバーに加えられたのは、古巣の磐田との契約を済ませて間もない頃だった。
「あのときはアジアクラブ選手権(現AFCチャンピオンズリーグ)で、香港のクラブ相手に1試合出ただけで、ほぼ公式戦に出ていなかったからね」
実質3カ月も試合から遠ざかっていたにもかかわらず、トルシエはアジア制覇を目指すチームに名波を加えた。前年にトルシエが地球の裏側で口にした言葉が、どこまで本気のものだったかは知る由もないが、その事実だけで本心はうかがえた。
4 / 5