東京五輪のOA枠。西川周作が監督なら「使います。ポジションは...」

  • 佐藤俊●取材・構成 text by Sato Shun
  • 甲斐啓二郎●撮影 photo by Kai Keijiro

オリンピック出場がサッカー人生に与えた影響
第2回:2008年北京五輪・西川周作(後編)

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 2008年北京五輪、日本はグループリーグ3戦全敗で大会を終えた。

 GKの西川周作(当時大分トリニータ。現在は浦和レッズ)は、まさかの結果にショックが大きかった。それでも帰国すると、次の目標に向けて、すぐに気持ちを切り替えていた。

「当時は、まだ若かったですからね。五輪で世界のすごさを見せつけられ、『このままじゃ、ダメだ』と痛感させられたので、これからもっと自らを高めていかなければいけないと思いました。目の前で起こったことや、プレーでの反省材料をクラブに持ち帰って、それを生かして『Jリーグで結果を出していこう』と。次はもう(上には)A代表しかないので、そこに選ばれるようにやっていこうと、気持ちを切り替えました」

 北京五輪代表で、当時海外組だったのは、VVVフェンロ所属の本田圭佑とカターニャ所属の森本貴幸だけだった。しかし、北京五輪のあと、多くの選手が海外へ飛び出していくことになる。その当時、西川にも「海外へ」という思いがあったのだろうか。

「圭佑からは、海外でプレーすることの重要性を聞いていたし、『面白そうだな』って思っていました。(周囲からも)『特にGKは、海外に行かないといけない』と言われていましたし。

 でも、それよりも(当時の)自分にとっては、日本代表に入ることのほうが大きかった。日本代表に入り続けないと、選手としてのモチベーションがなくなっていくんじゃないか、という怖さがあったんです。だから、所属クラブでがんばって、代表に入れるようなパフォーマンスをしないといけないと思っていました。

 ただ(北京五輪代表の)他の選手は皆、『行きたい』と思っていたと思います。『このままじゃ、ダメだな』って、みんな感じていたので。実際、自分らの世代は海外にどんどん出ていきましたからね」

 北京五輪組はその後、2010年南アフリカW杯を経て、2014年ブラジルW杯では完全に日本代表の主軸になっていくが、南アフリカW杯のあと、本田や森本に続いて、岡崎慎司、香川真司、長友佑都、内田篤人、安田理大、細貝萌、吉田麻也らが海を渡って、欧州のクラブで奮闘していく。

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