「嫌でしたよ」。黄金世代・酒井友之が
語るトルシエ戦術とコンバート
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世界2位の快挙から20年......
今だから語る「黄金世代」の実態
第13回:酒井友之(1)
1999年のFIFAワールドユース(現在のU-20W杯)・ナイジェリア大会の初戦、カメルーン戦に日本は1-2の逆転負けを喫した。フィリップ・トルシエ監督に初戦の重要性を説かれたが、相手のパワーやスピードに対応が遅れ、ミスも出て、初戦を失った。
1999年ワールドユースについて語る酒井友之 だが、酒井友之は逆に「やれる」という感触を得られたという。
「フラット3をはじめ、やってきたことを出せた部分が多かったし、フィニッシュまで行くシーンも多かった。ミスさえなくしていけばっていうのを感じたし、あと2試合を勝てば決勝トーナメントに行けるっていうポジティブな空気にチームはなっていましたね」
酒井は、この試合、3-5-2の右のアウトサイドでプレーしていた。
「自分の出来としてはまあまあだったかなと。でも、まさか、最初はアウトサイドをやるとは思ってもみなかった」
酒井は、苦笑しながらそう当時を振り返った。
ジェフユナイテッド市原ではボランチとしてプレーし、主力として試合に出場していた。そして、98年のアジアユースを戦うメンバーに招集されたが、そこで稲本潤一など能力の高い同世代に触れ、酒井は「この中でどう生き抜いていくのか」ということをあらためて考えさせられたという。
「これだけタレントが揃っている中、自分は技術とかスピードとかではみんなに劣るんで、どうやって生きていけばいいんだろうって考えていましたね。ジェフではボランチとして攻撃というよりは守備の切り替えを早くしたり、スペースを埋めたり、読みとか、予測で勝負してきたから試合に出られていたと思うんです。そういうプレーをする選手が代表チームにはいなかったので、それをしっかりやっていくしかないなって思っていました」
アジアユースでは、ボランチには稲本潤一、中田浩二、小笠原満男、遠藤保仁がいた。稲本が軸になり、酒井がもう一枠のポジションをキープした。決勝では韓国には負けたが、この準優勝したチームが本大会のメンバーの軸になると酒井は読んでいた。
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