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【プロ野球】「走らないなら使わない」 高木豊が明かす近藤貞雄の"鬼采配" スーパーカートリオはこうして誕生した (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Yasuyuki Takahashi

 近藤曰く「前の球団で成功したからといって、同じやり方、同じスタッフをそのまま持ってきてもうまくいくとは限らない」。横浜のファン気質や地域性に合うスタッフが必要とも言っているのだが、その一方で、コーチの顔ぶれがどうあれ、自らが貫く野球は決まっているという自信の表れなのか。

 では、そんな新監督に、ホエールズの選手たちはどう向き合ったのだろう。山口・多々良学園高(現・高川学園高)から中央大を経て、1980年のドラフト3位で入団した高木に聞く。俊足好打を武器に3年目から正二塁手となった高木は、84年には自身初タイトルの盗塁王を獲得していた。

【常識を覆した守備の総入れ替え】

「忘れもしないのが、その年のセ・リーグ東西対抗です。ナゴヤ球場でゲームがあって、その時、2本ホームラン打ったんですね。そしたら、ベンチに入っていた近藤さんが僕のところに来てくれて、翌年から大洋の指揮を執るということで『来年から頼むな。頑張ろうな』って言われたんです。すごくいい人だなって、思いましたね」

 東西対抗は巨人、ヤクルト、大洋が東軍、阪神、中日、広島が西軍に分かれて戦うオフのイベント(1979年〜99年に開催)。84年は11月17日に行なわれ、近藤と高木は東軍のベンチで一緒だった。自身を成長させてくれた関根の退任に衝撃を受け、寂しさも感じていた高木だったが、この出会いで覚悟が固まり、85年2月のキャンプを迎えた。

「近藤さんはすごくアイデアマンでしたからね。僕と屋鋪で100個ぐらい走らせるとか、そういうことは言うだろうなと思っていました。それで実際、『うちの売りとして、走っていけよ』とキャンプで言われまして。『とにかくどんな場面でもいいから走ろう』と盛んに言われたし、それが最終的には『走らないと勝てねぇぞ』になった。自分たちに責任を持たされた感じでした」

 高木が言う「アイデアマン」らしさは、攻撃よりも守備面に如実に出た。キャンプ序盤、近藤は二塁の高木を遊撃へ、遊撃の山下大輔を二塁へ動かし、一塁のレオン・リーを三塁へ、三塁の田代富雄を一塁へ配置転換。山下は遊撃で8年連続ダイヤモンドクラブ賞(現・ゴールデングラブ賞)の名手で、高木も二塁で同賞を受賞していただけに、多くの評論家から疑問の声が上がった。

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