検索

【あの人は今】延長17回の死闘で全国に名を轟かせたPLの1番打者 身長166センチのドラフト1位が語る悔恨のプロ野球人生 (3ページ目)

  • 飯尾哲司●文 text by Tetsuji Iio

── 田中選手が在籍した時期は、権藤博監督から森祇晶監督、山下大輔監督、牛島和彦監督へと指揮官が次々に交代した時期でもありました。チーム成績も安定せず、さまざまな変化があったと思いますが、そのなかでどのようなことを感じていましたか。

田中 私が現役だった7年間で4人の監督が指揮を執りました。それだけチームの方向性や野球のスタイルも変わりましたし、球団としても過渡期だったと思います。

── 現役7年間で341試合に出場し、75安打、打率.229、1本塁打、13打点、15盗塁、23犠打という成績を残されました。ご自身のプロ野球人生を振り返って、この数字をどのように受け止めていますか。

田中 自分なりにいろいろ試行錯誤しながらやってきました。でも、今になって振り返ると、「もう少し野球ができたのかな」という思いはありますね。それに、当時は人間としてもまだまだ未熟だったと思います。

【セカンドキャリアの原点となった桑田真澄の言葉】

── 延長17回を戦ったメンバーでもある横浜の小池正晃さんは、ベイスターズでチームメイトになりました。

田中 小池さんは、高校時代は1番を打っていましたが、ベイスターズでは2005、2006年と2年連続リーグ最多犠打を記録。チームのなかで確かな立ち位置を築きました。私は、足は速かったのですが、それを武器として確立できなかった。今振り返ると、環境やチーム事情ではなく、自分自身の努力不足だった部分は否定できないと思います。

──  2006年に現役を引退する際、PL学園の14年先輩にあたる桑田真澄さんに相談したそうですね。

田中 あの年は、桑田さんにとっても巨人での最後のシーズンでした。私はまだ現役を続けたいという気持ちが強くて、その思いを桑田さんに相談したんです。すると桑田さんから、「現役時代のプレーに加えて、指導者として還元し終わった時に初めて、"野球"が完結するのではないかな」という言葉をいただきました。その言葉を聞いて、アメリカ独立リーグへ挑戦する決意も固まりましたし、同時に選手としてのキャリアが終わったあとは、指導者の道に進みたいという思いも芽生えました。

3 / 4

  • Googleで優先するソースとして追加

Googleの「優先ソース」について

キーワード

このページのトップに戻る