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【あの人は今】延長17回の死闘で全国に名を轟かせたPLの1番打者 身長166センチのドラフト1位が語る悔恨のプロ野球人生 (2ページ目)

  • 飯尾哲司●文 text by Tetsuji Iio

── 松坂投手から1試合4安打を放ったことも高く評価され、翌99年のドラフトで横浜ベイスターズから1位指名を受けました。当時はどのような心境でしたか。

田中 1998年の夏の甲子園のあと、2年生で全日本に選んでいただきました。そのメンバーのなかから、その年のドラフトで松坂さん(横浜→西武)、新垣渚さん(沖縄水産→オリックス※入団拒否)、實松一成さん(佐賀学園→日本ハム)、東出輝裕さん(敦賀気比→広島)、吉本亮さん(九州学院→ダイエー)と、じつに5人がドラフト1位指名を受けました。そういうこともあって、頑張れば「自分も上位で指名される可能性はあるかもしれない」と思っていましたね。

【試行錯誤の7年間のプロ生活】

── プロ入り時の目標は?

田中 もちろん、新人王を獲りたいという気持ちもありましたし、いろいろな目標や意欲も持っていました。ただ、当時の横浜は外野陣が本当に充実していたんです。2番・波留敏夫選手、3番・鈴木尚典選手、6番・佐伯貴弘選手に加え、金城龍彦選手もいて、みんな脂が乗りきっていた時期で、なかなか自分が入り込む余地はありませんでした。

── 田中さんの身長は166センチでした。プロにも小柄な選手はいましたが、多くは内野手でした。外野手としてプレーするうえで、体の小ささをハンデに感じることはありましたか。

田中 プロに入ってからも、体格の差をそれほど感じることはありませんでした。というのも、自分はもともとホームランを打つタイプの打者ではありませんでしたし、「守り」を軸に、小技を生かして勝負していこうと考えていたからです。実際、プロでは守備固めとして起用されることも多かったですし、自分の役割ははっきりしていました。

── 当時の横浜は1998年に日本一に輝いた直後で、チームには実力者が数多くいました。それだけライバルも多いなか、プロ3年目の2002年には自己最多となる112試合に出場し、44安打を記録しています。そのシーズンはどのような手応えがありましたか。

田中 石井琢朗さんが三遊間へ流し打って、足で内野安打にしてしまうようなプレーや、波留さんのガッツあふれるプレーを間近で見ることができました。そういう先輩たちから学ぶことは本当に多かったですね。

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