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潮崎哲也が語る「魔球・シンカー」誕生の瞬間 カーブと反対の発想で投げてみたら人生が変わった (3ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

 卒業後、潮崎は社会人野球の松下電器(現・パナソニック)に進む。入社内定時の監督=山口円が鳴門高出身(関西大)という縁もあったが、87年の入社時には新監督に鍛治舎巧が就任。若手を積極登用する鍛治舎の方針により、潮崎は高校出1年目にして試合で起用され、先発も任された。

 チームが同年の都市対抗野球大会出場を果たすと、2回戦のヤマハとの試合にリリーフで初登板。先発が初回に7失点と大炎上したあと、2回を1失点に抑えて火を消した。この頃には真っすぐの球速が150キロに迫り、より遅いシンカーが生きていた。

「150キロは絶対出てないです。出て、140キロちょっとくらいだと思いますけど、たしかに『球が速くなったな』っていう実感はありました。じゃあ、何で速くなったか。当時、走ったり、走らされたり、ランニングはやっていましたね。でも、筋トレはやってないです。腹筋や背筋、自重トレーニングをやっていただけで。だからもう、体はペラッペラでした(笑)」

【史上最年少で日本代表に選出】

 入社2年目の88年、エースとなった潮崎は都市対抗1回戦の日立製作所との試合に先発。7安打2失点、10奪三振という内容で完投勝利を挙げた。NTT 東海と当たった2回戦も7回を投げて2安打2失点、9奪三振と好投したが、味方打線が振るわず1対2で敗退。それでも潮崎自身の評価は高まり、大会後、史上最年少の19歳で日本代表に選出された。

 8月の世界選手権で4試合に登板(先発3、救援1)した潮崎は、9月、ソウル五輪の野球競技に出場。野茂英雄(新日鉄堺→近鉄)、石井丈裕(プリンスホテル→西武)とともに投手陣の三本柱を形成し、全5試合のうち4試合に登板(先発1、救援3)。日本の銀メダル獲得に貢献した。

 高校では二番手だった投手が社会人1年目から主力となり、わずか2年間で日本代表の中心選手へと上り詰めたわけだ。それだけの急成長も、すべてはシンカーが生きて、真っすぐが速くなったからなのか。

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