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打倒・江川卓に燃えた日々を名将・渡辺元智が振り返る 「小細工なしで戦ったからこそ、選抜で初優勝できたのかもしれない」 (2ページ目)

  • 松永多佳倫●文 text by Matsunaga Takarin

 今なら、豊富な経験と蓄積した野球理論を駆使すれば、全盛期の江川であっても攻略できるという自負があるだろう。ただあの時代は、真っ向勝負でよかったんだと納得しているようにも思えた。

【江川との対峙が横浜を強くした】

「私が携わったなかですごいチームといえば、まず98年の松坂の代、それから94年の紀田(彰一/元横浜ほか)、斉藤(宣之/元巨人ほか)、多村(仁/元横浜ほか)、矢野(英司/元横浜ほか)がいたチーム。そして江川と戦った代です。この代は、サムライという部分ではナンバーワン。翌73年の選抜で初出場・初優勝したんですから。

 秋の大会が終わってから、"打倒・江川"を掲げて、毎日ほぼ打撃練習です。私自身、監督として未熟だった最中に江川という巨木が立ちはだかり、なんとかして倒すために選手と共に切磋琢磨しました。それが全国制覇という道につながったと思っています」

 当時まだ20代後半だった渡辺は、試合中に具体的な指示を出すことができず、「なんとかしてこい。おまえしかいない」が口癖だったという。選手たちからすれば、「そう言われても......何をすればいいんだよ」と戸惑うしかない。気合いで打てと言われても、江川の球を気合いだけで打てるはずがない。

 しかし、どれだけ三振を重ねても、ビビりながら打席に立つのと、気合いを入れて堂々と向かっていくのとでは全然違う。ピッチャーにとって、向かってくるバッターほど嫌な存在はない。

「秋の大会で、小細工なしで戦ったからこそ、選抜で初出場、初優勝を達成できたのかもしれません。あの年は、全国の高校が"打倒・江川"に燃えていた時期でしたから」

【もし高校時代の江川を指導したら...】

 渡辺と二人三脚で"常勝横浜"を築き上げた、横浜高校野球部の元部長・小倉清一郎にも、「松坂と江川、どちらがすごかったのか?」と尋ねてみた。

「松坂とは比較にならないですね。当時、東海大一(現・東海大静岡翔洋)のコーチをしていたので、銚子まで江川を見に行きましたし、選抜にも足を運びました。まず、あれほど高めで伸びる真っすぐは見たことがありません。バットにかすりもしないんですよ。

 それに、大きくて落差のあるカーブもすばらしかった。ただ、低めの球はほとんどなくて、全部ベルトより上でしたけどね。今のスピードガンだったら、158〜159キロは出ていたでしょう」

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