検索

【野球】日大三高出身の選手も! ドミニカで見つけた3人の日本人プレーヤー 「彼らはなぜこの地にたどり着いたのか」 (3ページ目)

  • 中島大輔●文 text by Nakajima Daisuke

 代理人に紹介してもらい、これでダメならあきらめがつくと6月下旬、ドミニカへ。サマーリーグのトライアウトを受けたあと、7月中旬の開幕までセントロ・オリンピコに練習場所を求めて、少年たちが練習する片隅で黙々と準備を重ねていた。

「ドミニカの小さい子たちを見ていると、野球で成功しようと生活をかけています。たとえ独立リーグでも、日本がどれだけ環境に恵まれていたのかと思いました。ドミニカに来たのは自分で決めたことなので言い訳をせず、いい契約につながるように、使える環境を最大限に使っています」

 山田がドミニカで繰り返す練習は壁当てだ。高さ1メートル、横は2メートル未満で、ボコボコだからどこに跳ね返ってくるかもわからない。さらに、地面はコンクリートである。

 思い出すのは、日本で小学生の頃に壁当てをしていた頃だ。21歳になって同じ練習をすると、その意味が深く感じられる。

「これくらいしか練習できないなか、壁当てをより深くやってみようと動画を撮ってみたら、自分の今まで思っていた動きと実際にやっていた動きが違っていました。ただの壁当てかもしれないけど、意外と自分のなかでは深みを持ってやれています」

【野球が得意なのでやれる限り挑戦したい】

 海外に身を置くと、あらためて自分自身と向き合う時間がたくさんある。現在32歳の内野手・新井勝也は2年間のアメリカ生活を経て、今年ドミニカにたどり着いた。新井は千葉商業高を経て清和大学でプレーしている間に右肩を故障し、卒業後に一般就職した。

 だが野球をあきらめきれず、飲食店で働きながらクラブチームで野球を続け、愛媛マンダリンパイレーツと大分B−リングスを経て、アメリカの独立リーグで2年間プレー。渡米1年目には所属球団が消滅する憂き目に遭ったが、ニューヨークの日本食レストランで働きながら練習してキャリアを切り拓いた。

「現地の人たちに助けられ、運よく生きているような感覚があって。助け、助けられという感じですね。アメリカでもそう。球団が消滅したあと、地域リーグの人に『来てくれ。お願い』と言われてそのチームに行きました。僕は現地にいて、必要とされてプレーすることにすごく喜びを感じています」

3 / 4

キーワード

このページのトップに戻る