【プロ野球】現役引退の田中健二朗が振り返った「木塚敦志との死闘の日々」と「忘れられない2つのシーン」 (4ページ目)
プロ生活18年。もし、右も左もわからぬ「ハマの田舎」というニックネームがついていたルーキー時代の田中健二朗に声をかけられるとしたら、何と言ってあげたいだろうか。
「そうですね。『早く中継ぎやっておけよ』ってことですかね(笑)。若い時は変に『先発じゃなきゃダメだ』みたいな思いがあって、そんなことにこだわっていたら苦しくなっていくだけだよって。選手には適性というものがあるし、それを早く見つけること大事。まあ、それってすごく難しいことなんですけどね」
今後の去就は未定だそうだが、そういう意味で選手の特性を見極め、正しい道へ導くような指導者になることに興味はあるのだろうか。
「もちろんあります。やっぱり僕も若い時に木塚さんに指導してもらったことで、ここまでの野球人生があるので、今度はそれを若い子たちに返していきたいという思いはありますね」
いよいよ終わりの時が刻一刻と近づいている。引退の報告を木塚氏にした時、「シーズン最後の終わりまで田中健二朗でいてくれ」というメッセージをもらっている。田中は少しだけ感情を震わせ、静かに言うのだ。
「本当にその通りやりたいと思っていますし、田中健二朗をつくってくれたのは木塚さんなので、シーズンが終わるまで恩返しじゃないけど、自分らしく下半身で地面をつかんで、目いっぱい腕を振りたいと思います」
紆余曲折あった18年間。生来、恥ずかしがり屋なので野球愛を前面に出すタイプではなかったが、誰よりも野球を愛していた自負はある。だから何度窮地に追い込まれても耐えることができた。オラついた表情、ここ一発の勝負度胸、そして打者を抑えると淡々とマウンドを降りていくその勇ましい背中。いつまでも田中健二朗を忘れない──。
田中健二朗(たなか・けんじろう)/1989年9月18日生まれ。愛知県出身。2007年の常葉菊川高3年時に春のセンバツで優勝し、夏も全国ベスト4に進出した。同年、高校生ドラフト1位で横浜ベイスターズに指名され入団。15年に35試合に登板し防御率2.20の好成績を挙げ、以降は貴重な中継ぎとして活躍。その後、ヒジの故障もあり19年にトミー・ジョン手術を受けて育成契約となるも、21年6月に再び支配下登録に。22年4月19日には1363日ぶり勝利を挙げた。しかし翌年、11試合の登板に終わると、オフに戦力外通告。24年からNPBのファームに新規参入したくふうハヤテベンチャーズ静岡でプレー。25年9月に現役引退を表明した。NPB通算274試合登板、14勝13敗1セーブ64ホールド、防御率3.64
著者プロフィール
石塚 隆 (いしづか・たかし)
1972年、神奈川県出身。フリーランスライター。プロ野球などのスポーツを中心に、社会モノやサブカルチャーなど多ジャンルにわたり執筆。web Sportiva/週刊プレイボーイ/週刊ベースボール/集英社オンライン/文春野球/AERA dot./REAL SPORTS/etc...。現在Number Webにて横浜DeNAベイスターズコラム『ハマ街ダイアリー』連載中。趣味はサーフィン&トレイルランニング。鎌倉市在住
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