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岩瀬仁紀が明かす日本シリーズでの継投・完全試合の舞台裏 「こっちに拒否権があればよかったんですけど...」 (4ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

「能力が落ちてきたところで同じように数字を挙げるって、どれだけ難しいか。対戦すればするほどバッターのほうが有利になるし、だんだん自分の球の質が落ちていく。そのなかで勝負していって結果を残しているのに、周りから『よくランナーを出す』とかブツブツ言われて(笑)。すごく腹立たしかったですね。そっちのほうが難しいんだって言いたかったですよ」

 実績を積み上げた抑えほど、周りから「抑えて当たり前」と思われがちだが、実際は逆であり、岩瀬に言わせれば「当たり前なんてあり得ない」と。それでも岩瀬自身、40歳を過ぎた15年から左ヒジの故障で長期離脱しながら、17年に50登板と復活。すでに抑えではなくなっていたが、周りは前人未到の1000試合登板に期待した。その数字を目指すことが生きる糧になっていたのか。

「いや、目指してないです。それよりも、抑えに戻りたいなあって思ってて。やっぱり、あそこのポジションじゃないと、自分が自分でないような。何か中途半端に野球やってるなあ、っていう感じだったんです。あの、ヒリヒリする場面じゃないと生きられないみたいな」

 毎試合、投げたくなかった岩瀬だが、最後まで抑えであり続けたかった。「もうひとりの岩瀬」が成し遂げた407セーブという日本記録を、どう位置づけているのだろうか。

「残ったものに過ぎないですね。僕が抑えになったのがちょうど30歳になる年、29歳からです。だから、29歳から400セーブ挙げたわけなので、いつか抜かれると思ってますよ。だって、僕がプロ入ったのは大学、社会人、出てからなので。高校から入って抑えやったら、抜きやすいですしね(笑)」

(文中敬称略)


岩瀬仁紀(いわせ・ひとき)/1974年11月10日、愛知県生まれ。西尾東高から愛知大、NTT東海に進み、98年のドラフト会議で中日ドラゴンズを逆指名し2位で入団。入団1年目の99年シーズン途中から勝ちパターンの一角を担い、最優秀中継ぎ投手賞を受賞。その後も中継ぎで起用され、2004年からは抑えとして5年ぶりの優勝に貢献。07年の日本ハムとの日本シリーズの第5戦において、8回まで完全試合ペースの好投をしていた山井大介に代わり9回に登板。三者凡退に抑えてNPB史上初の継投による完全試合を達成。12年にはセ・リーグ史上最多の5度目、また最年長記録となる最多セーブのタイトルを獲得。18年9月28日の阪神戦でNPB初の1000試合登板を達成し、同年現役を引退。19年からは野球解説者として活動。25年に野球殿堂入りを果たした

著者プロフィール

  • 高橋安幸

    高橋安幸 (たかはし・やすゆき)

    1965年、新潟県生まれ。 ベースボールライター。 日本大学芸術学部卒業。 出版社勤務を経てフリーランスとなり、雑誌「野球小僧」(現「野球太郎」)の創刊に参加。 主に昭和から平成にかけてのプロ野球をテーマとして精力的に取材・執筆する。 著書に『増補改訂版 伝説のプロ野球選手に会いに行く 球界黎明期編』(廣済堂文庫)、『根本陸夫伝 プロ野球のすべてを知っていた男』(集英社文庫)など

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