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鍵谷陽平が振り返る名門・北海高時代の前代未聞の出来事 「話し合いをしてくれるまで練習には出ません」 (4ページ目)

  • 市川光治(光スタジオ)●取材・文 text by Ichikawa Mitsuharu(Hikaru Studio)

── あれほど打たれた経験は?

鍵谷 公式戦ではなかったですね。しかも甲子園の舞台であれだけ打たれるとは......ふつうに考えたら、10点取ってくれれば勝てるじゃないですか。それまでの試合は全部投げきったんですけど、あの夏、初めて途中でマウンドを降りました。そういうこともあって、記憶から消したいんです(笑)。

【どこでもいいから早く指名してくれ】

── 高校卒業後、中央大学に進みます。プロ野球選手になるというのがリアルに感じるようになったのはいつ頃ですか。

鍵谷 大学2年の秋です。それまで149キロしか出せなくて、リーグ戦でもほとんど投げていなかったのですが、ちょうど澤村(拓一)さんがジャパンに行って、脇腹をケガしたんです。それで僕にチャンスが回ってきて、リリーフで投げたら152キロが出て。防御率もロッテに行った(東洋大学の)藤岡貴裕さんと争ったんです。それで「プロに行けるかも」と思って、本気で目指すようになりました。ただその時、ヒジを痛めてしまったんです。

 ヒジが痛いなと思いながら投げていたら、徐々に握力がなくなって。結果は靭帯損傷でした。断裂ではなかったので手術はしませんでしたが、ずっと痛くて、その冬は投げませんでした。それからなかなかパフォーマンスは上がらず、大学3年の時はモヤモヤした気持ちで過ごしていましたね。

── 元の感覚というか、しっかり投げられるようになったのは4年生になってからですか?

鍵谷 4年の時は絶好調でした。ツーシーム、フォークという新しい球種を投げるようになり、自分のなかでピッチングのコツというのもつかんだというか。

── スカウトも来たと思いますが、やはり意識しましたか。

鍵谷 そんな余裕はなかったですね。4年生のピッチャーは、僕ひとりになったんです。ひとりはマネージャーになり、残りの選手は就活に行ったりで、ベンチに入れるようなピッチャーがいませんでした。僕は投手キャプテンをしていたので、全員の練習メニューを決めたり、もちろん自分でもやらなければならなかったので忙しかったですね。でも、それが逆によかったのかもしれない。勝ち星はつかなかったけど、投手としての成績はよかったので、プロにつながったのかなと思います。

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