検索

江川卓の圧倒的ピッチングの秘密を鹿取義隆が明かす「打者を見極める感覚が研ぎ澄まされていた」 (3ページ目)

  • 松永多佳倫●文 text by Matsunaga Takarin

【瞬く間に巨人のエースへ】

「僕が入団した頃は"NHK"と呼ばれていた新浦壽夫さん、堀内恒夫さん、加藤初さんがいて、そこに西本聖が入ってくるんだけど、彼らと比べると僕なんて明らかに力が落ちるわけですよ。だから先発なんて最初から無理だと思っていたし、そういう考えすらなかった。とにかく登板した試合で結果を残すしかない。負けている試合のワンポイントから、同点でのワンポイントになって、次に勝ちゲームのワンポイントというように、結果を残して徐々に序列が上がっていくわけです。

 でも江川さんは、そんな強力な投手陣のなかにポンと入って、いとも簡単に先発の枠を勝ち取るんですから......やっぱり能力が違いますよね。初めは『どんなピッチャーだよ?』と思っていた先輩たちも、『やっぱりすげえな』と認めるしかない。そこが江川さんのすごいところです」

 一軍に上がるとすぐにローテーションに入り、瞬く間に巨人のエースに上り詰めた江川のすごさを、鹿取は忖度なしに絶賛する。

「江川さんって、あれだけ投げても壊れない。引退した年でも13勝しているんですから。とてつもない体の強さですよ。江川さんはケガをして全力で投げていないと言うけど、本当にケガをしていたのかなと思います。晩年は"100球肩"と揶揄されていましたが、どのピッチャーでも100球前後になると威力は落ちてきますし、打たれる確率も高くなる。肩を痛める前の江川さんは、100球を超えてもスピードが落ちることはなかった。それが加齢や肩の勤続疲労などでできなくなっただけで、僕らからすれば江川さんの球は最後まで速かったですよ」

 当時は、先発完投が当たり前の時代。だからこそ、江川の晩年のピッチングはマスコミの格好の的となり、叩かれまくった。

 江川のプロ生活は、最初からバッシングを受け、最後も物議を醸し出す形となりメディアの餌食となった。しかし真の実力の部分においては、野球人の誰もが認め称えていた。大学時代から近くで見ていた鹿取の江川への印象は、一度も変わることがなかった。

(文中敬称略)


江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している

著者プロフィール

  • 松永多佳倫

    松永多佳倫 (まつなが・たかりん)

    1968 年生まれ、岐阜県大垣市出身。出版社勤務を経て 2009 年 8 月より沖縄在住。著書に『沖縄を変えた男 栽弘義−高校野球に捧げた生涯』(集英社文庫)をはじめ、『確執と信念』(扶桑社)、『善と悪 江夏豊のラストメッセージ』(ダ・ヴィンチBOOKS)など著作多数。

フォトギャラリーを見る

3 / 3

関連記事

キーワード

このページのトップに戻る