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阪神ドラ4・町田隼乙が振り返る「捕手失格」から這い上がったBC埼玉での3年間 (2ページ目)

  • 井上尚子●文・撮影 text & photo by Inoue Hisako

 当時の監督は、元ロッテの角晃多。社長を兼任していたため、現場にいられるのは試合の時がほとんどだった。チームにバッテリーコーチはおらず、捕手の練習はベテランの先輩捕手に任されていた。座り方から始まって、ブロッキングやキャッチングなどひたすら基礎の反復練習をしていた。

 リーグ開幕後は交代でマスクをかぶっていたが、先輩捕手が5月に骨折。町田はチーム唯一の捕手になってしまう。高卒1年目にして、その後の試合にフル出場することになった。

「あの頃は体力的に、試合に出るだけでいっぱいいっぱいでした。休みの日はずっと寝ていて動けなかったです」

 バッティングでは目を見張る部分もあったが、独立リーガーの速球についていけなかった。

「1年目はストレートに刺されることが多く、なかなか速球を打てなかった。だから角さんには、速い真っすぐの打ち方や、打席での意識を教わりました」

 先輩捕手が復帰してからも、町田は第一捕手として試合に出続けた。しかしキャッチャーとしてはすべてが未熟。バッテリーエラーが多く、盗塁もされ放題。大柄なためにモーションが大きくなり、送球が遅くコントロールが悪いという欠点を克服できずにいた。

【NPB経験者たちからの学び】

 2022年、独立リーグ1年目の成績は打率.210、本塁打4本。その年も調査書を1枚もらったが、またも指名漏れとなった。その年にBC埼玉からNPBの扉をこじ開けたのは、内野手の樋口正修(現中日)だった。

 2年目から、町田以外の捕手は後輩のみとなり、捕手練習は自分たちで行なった。ただ、捕手専門のコーチはおらずとも、周囲の指導者たちにはさまざまなことを教わった。

監督には西崎幸広が就任。角監督もそうだったが、伸び伸びとやらせてくれた。また、2022年から投手コーチ兼投手となった由規(佐藤由規)とは、ずっとバッテリーを組んだ。

「高校時代に受けていた球よりも2段も3段も上のレベルで、1年目は『どうやって捕ればいいんだろう』という感じでした。最初は、ランナーが3塁にいる時に(空振りを取るために)ワンバンの球を要求するのも怖かったです」

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