佐藤道郎は「8時半の男」の記録を抜くためだけに登板 まさかの2被本塁打も最優秀防御率のタイトル獲得 (3ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

【プロ野球選手を実感した球宴出場】

「オレが入った時の南海は杉浦忠さん、皆川睦雄さんの大スターがふたりおられて、さらに三浦清弘さん、渡辺泰輔さんがいて、左のマッシー村上(雅則)もいてね、先発陣にいいピッチャーが多かったのよ。だからもう、中継ぎでも何でもいいからね、一軍で試合に出たかったんですよ」

 同年、セ・リーグでは大洋(現・DeNA)の小谷正勝がリーグ最多の53試合登板。先発は6試合のみで、チームでは前例のない抑え専門の投手が誕生した。これは監督の別当薫が近鉄を率いた当時、久保征弘を抑えで生かした実績を踏まえた起用だった。小谷は翌71年も活躍して「12球団一のリリーフ男」と呼ばれるのだが、同業の佐藤にとって、意識する存在だったのだろうか。

「小谷さん、もちろん知ってるけど、当時はまったく意識しなかったね。他球団の人がどうこうより、オレが入った頃の南海は寮がひとつしかなくてさ。朝から夕方まで練習して、泥だらけになって帰ってきた二軍の連中がボコボコに殴られてるのを見て、二軍だけには行きたくねぇ、ということで一生懸命やったわけ。

 そしたら監督推薦でオールスターに選ばれて、王(貞治)さん、長嶋(茂雄)さんと対決した時に、『ああ、オレはプロ野球に入ったんだ』と思った。大阪球場で9回に登板して、王さんを三振、長嶋さんをセカンドフライか、それだけは覚えているんですよ。王さんは一本足で立ってビクともしない人、長嶋さんは何か落ち着かない人だな、っていう印象だったね」

 新人ながらONも抑えた佐藤だが、真っすぐはとくに速いわけではなく、最も自信がある変化球はスライダーという投手。それでも、グラブを持つ左手を高く上げる「脅かしフォーム」でボールを隠し、バッターの体感スピードを上げていた。加えて、野村の巧みなリードで投球の幅が広がり、もともとの度胸のよさもあり、ピンチでの火消し役に向いていた。

「ただね、オレが新人王を獲れたのは、上田卓三がいたから。三池工業のエースで、甲子園で優勝した左ピッチャー。その上田が中継ぎですごくいい仕事をしてくれて、オレ、出番があったのよ。先発が序盤に崩れても、あいつが抑えてくれているうちに打線が点を取って、出番がくる。たしか、ロングで6回とか7回、上田が投げたあと、オレが出ていって勝ったことも二度あったし」

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