県内屈指の進学校から筑波大に進み全国制覇 プロにまったく興味のなかった渡辺正和はなぜダイエーに入団したのか (2ページ目)

  • 飯尾哲司●文 text by Iio Tetsuji

【1年目に完投でプロ初勝利】

── プロ1年目から一軍で登板を果たしました。

渡辺 プロ1年目の93年に初勝利を完投で飾り、2年目には中継ぎで4勝。プロでやっていける自信めいたものをつかんだのですが、それも束の間でした。王貞治監督1年目の95年、春先の練習中に利き腕の左肩を強打して、その瞬間、「選手生命が終わったかな」と感じたほどの痛みでした。結果的に肩鎖関節脱臼でした。

── その95年から5年間は未勝利でした。

渡辺 99年にダイエーは初優勝したのですが、一軍登板はなし。98年オフに結婚した妻と一緒にテレビで王監督のリーグ優勝の胴上げを見ていました。シーズン後の秋季キャンプのメンバーに名前がなかったので、それなりの「覚悟」をしていたのはたしかです。日本シリーズ前の打撃練習の手伝いに行って、尾花高夫投手コーチから「こういう手伝いの時でも何かアピールしなさいよ」と言われました。

── 尾花氏は前任のヤクルトコーチ時代、「野村克也再生工場の現場監督」の異名がとりました。

渡辺 あとで聞いた話ですが、尾花さんが「正和にもう1年猶予をやってくれ」とフロントに頼んでくれたらしいです。「もっとシュートをストライクゾーンに投げなさい。147、8キロのストレートを142、3キロに落としてもいいから、もっと低目に投げなさい」とアドバイスされました。思えば、あれがターニングポイントでした。

【ONミレニアム決戦で奮闘】

── 2000年に60試合登板を果たしました。投球回は85ですから、「イニングまたぎ」も多かったのですね。

渡辺 99年はチームに2ケタ勝利投手が5人いましたが、00年はゼロ。長冨浩志さんや吉田修司ら、ほかの中継ぎ投手とともに「何とか抑えのロドニー・ペドラザ(35セーブ)までつなごう」と話し合っていました。以降、03年までの4年間で計211試合に登板することができました。

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