基満男と関根潤三の「冷戦」はある住職からの「おまえの三振が見たい」で終止符が打たれた (3ページ目)

  • 長谷川晶一●文 text by Hasegawa Shoichi

「ある日の食事会で、若手選手たちが『基さんぐらいになったら、監督が出てくれと言うても、イヤと言えるんだな』と話しているのを聞いてしまった。この時、自分がやっていることは若手に対して、決していい影響を与えていないことに気づいたんやね。練習態度や試合に臨む姿も決していいとは言えなかったはずだから」

 基は考えを改めた。ひとまず、関根と基による「冷戦」は終戦を見たのである。

【40年を経て、いま思うこと】

 84年シーズン、基はコーチ補佐を兼任することになった。同時に代打としての勝負強さも発揮した。83年には打率.307、翌84年には.345を記録した。

「代打では、よぉ打ったよ。『あのオッサンに負けちゃいかん』って思っていたから。ピンチヒッターというのは、レギュラーになれなかった人間がやるもの。だから、レギュラーの時と同じ心境で打席に入っても打てない。『そのピッチャーのベストボールは打てないんだ』って理解したうえで、投げそこないを打つ。絶対に投げそこないを凡打しない。そんな気持ちで打席に入っていたのがよかったのかもしれんね」

 結局、この年限りで基はユニフォームを脱いだ。プロ生活18年で放ったヒットは1734本、2000本には届かなかった。あらためて、自身の転機となった83年を振り返ってもらうと、最初に飛び出したのはポジション争いを繰り広げた高木への賛辞だった。

「あの年、豊はよぉ頑張ったと思うよ。実質1年目で3割を打ったんやから。上等じゃない。だから監督の考えは間違いじゃなかった。あらかじめポジションを与えて、我慢強く起用することでひとりの選手を育て上げた。それは絶対に間違いじゃなかった。よその監督がそれをしていたら、『正しい判断だ』って思うよ。ただ自分のチームで、自分のこととして考えたら、オレにとっては間違いやけどな」

 限られたポジションを奪い合うプロの世界に生きた男の発言だった。この頃、関根と基との冷え切った関係を耳にした、広島・古葉竹識監督が「基獲得」を企図したこともあったが実現には至らなかった。当時、浪人中だった長嶋茂雄からは「基、絶対に辞めるなよ」と言葉をかけてもらったこともあった。

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