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元巨人広報が明かす松井秀喜の素顔「不調の時でも、メディアから逃げたことは一度もなかった」 (3ページ目)

  • 木村公一●文 text by Kimura Koichi

【巨人・松井秀喜監督はあるか?】

── そんな松井さんも、「松井秀喜を演じるのは難しい」とおっしゃったとか。奇しくも、長嶋さんと同じ言葉を漏らしていました。

香坂 そうです。結局、自分の置かれた場所でどうやって生き抜いていくべきなのか、ずっと考えていたということですね。入団したチームが巨人軍だったんですから。賽は投げられた......です。

── 松井さんは子どもの頃、阪神のファンだったというのは有名な話です。もし阪神に入っていたら、あるいは阪神でなくても巨人以外のチームに入っていたら、あれだけの実績を残したと思いますか。

香坂 もちろんです。たとえ巨人以外のチームでプレーしていたとしても、やはりそのなかで戸惑い、迷い、考え、苦しみながら、ひたむきに彼はじっと自分の将来を見定めていったでしょう。

── そして夢であったメジャーまで上り詰めた。

香坂 本人の意思と努力の結果には違いないけれど、あえて広報の立場でそばにいた僕として感じたのは、ファンのみなさんの応援やマスコミの力も大きかったと思います。そりゃ打てないときは叩かれたこともありましたけど、それも彼が鍛えられたひとつだと思うんです。どんな不調の時も、彼はメディアの前から逃げたことは一度もなかった。メディアのことを「プレス(Press)」とも言うけど、遠慮なく叩くぞという意味だってある。メディアの向こうにはファンがいるわけですから、期待に添えないようなら叩かれてもしょうがない。プロ野球選手にとってはつらいところだけど、それを跳ね返さなくてはいけない。そして選手はより成長もする。プロ野球選手の宿命ですよ。松井は、そうした叩かれることの意味というか、それがプロというものだということを覚悟していたと思う。

── 松井さん、巨人の監督になることはあると思いますか?

香坂 どうでしょうね。

── 誘いがあったとしても、私人としての人生を大切にして固持か。それとも巨人というチームで足跡を残した者の使命として受け入れるか。

香坂 僕には正直、わかりません。松井のユニフォーム姿を再び見てみたいという多くのファンの方がいらっしゃると思いますが、その気持ちは僕も同じです。ひとりの裏方であった僕は、そこまでしか言うことができません。ただ彼には、これまで彼が歩いて来た野球人生のなかで大事な判断を迫られる時がありました。巨人のドラフト1位指名、メジャーリーグ挑戦、自らが進む道を自分の判断で決断してきた。そして人生の節目としてまた決断すべきタイミングが来たとしても、彼はその判断を間違えたりはしないだろうと思います。なぜなら、判断を誤らなかったからこそ、彼には成功という今があるからです。


香坂英典(こうさか・ひでのり)/1957年10月19日、埼玉県生まれ。川越工業高から中央大を経て、79年ドラフト外で巨人に入団。4年目の83年にプロ初勝利を挙げるも、翌年現役を引退。引退後は打撃投手をはじめ、スコアラー、広報、プロスカウトなどを歴任。2020年に巨人を退団し、21年秋からクラブチームの全府中野球倶楽部でコーチを務めている

  『プロ野球現場広報は忙しかった。 裏方が見たジャイアンツ黄金時代』(ベースボールマガジン社刊)

1980年、中央大からあこがれの巨人入団を果たすも、 5年で戦力外に。 しかし、それが長くて楽しい? 裏方人生のスタートでもあった。 打撃投手、スコアラー、そして第2期長嶋茂雄監督時代がメインだった現場広報……。 さまざまな役職を務めながら、 ジャイアンツを支え、ジャイアンツとともに生きた著者・香坂英典氏が、華やかな表舞台の裏側にあった「裏方の裏話」を綴る。

【CONTENTS】

初めに

第1章 われらの「生きる教科書」長嶋茂雄監督

第2章 僕がジャイアンツに入るまで

第3章 ジャイアンツでの青春時代

第4章 楽しかった先乗りスコアラーの仕事

第5章 広報時代、松井秀喜という男

第6章 愛すべき、そして素晴らしい選手たち

第7章 敵? 味方? 報道陣の話

第8章 そして今、野球を楽しみ、野球とともに生きる

終わりに

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著者プロフィール

  • 木村公一

    木村公一 (きむらこういち)

    獨協大学卒業後、フリーのスポーツライターに。以後、新聞、雑誌に野球企画を中心に寄稿する一方、漫画原作などもてがける。韓国、台湾などのプロ野球もフォローし、WBCなどの国際大会ではスポーツ専門チャンネルでコメンテーターも務める。

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