秦真司が証言「野村克也さんのID野球の成功は、関根潤三さんが遺してくれた土台があったからこそ」
微笑みの鬼軍曹〜関根潤三伝
証言者:秦真司(後編)
1991年以降は外野手としてヤクルト黄金期を支えた秦真司氏 photo by Sankei Visualこの記事に関連する写真を見る
【ID野球の成功は土台があったから】
関根潤三がヤクルトスワローズの監督となって2年目の1988年、秦真司はようやく正捕手の座を掴つかんだ。しかし、翌89年シーズン終了後、関根はチームを去る。後任は野村克也が務めることになり、この時ドラフト2位でトヨタ自動車から入団したのが古田敦也である。
「野村さんがヤクルト監督となって3年目の92年にリーグ優勝、翌93年には日本一になりました。これは関根さんの時代に育った選手がいたからこそ可能になったことでした。関根さんが徹底的に鍛え上げた若手に、野村さんが"頭の野球"を叩き込みました。そこには、関根さんに対するライバル心があったと僕は思います」
関根監督時代に抜擢され、小さな成功体験を積み上げたことで大きく成長した池山隆寛、広沢克己(現・廣澤克実[光白1])、そして秦らに、野村は「ID(データ重視)野球」を叩き込んだ。こうして、選手たちは飛躍的な成長を遂げた。後年の話となるが、秦の結婚式において、野村は「ヤクルトには関根さんが育てた選手がたくさんいるが、秦もそのひとりです」とスピーチしたという。秦が続ける。
「野村さんとしては、関根さんが培った池山、広沢さんらを重宝しつつ、自分で育てた選手も起用したかった。キャンプの時点ですでに、『バッティングには目をつぶって、古田を使う』と明言していましたから」
その言葉どおりに古田が正捕手となり、野村監督の下で黄金時代を築くことになるのは周知の事実だ。持ち前の打撃を評価されていた秦は、捕手から外野手にコンバートされ、選手会長も歴任し、スワローズ黄金時代の立役者のひとりとなった。
「野村さんが監督になってヤクルトが強くなった理由のひとつは、関根さんが土台づくりをしていたことが大きかったと思います。そこに古田や飯田(哲也)、土橋(勝征)ら、野村さんに抜擢された選手が加わって強いチームとなりました。でもその半面、関根監督時代に台頭していた栗山(英樹)さんや、笘篠(賢治)が出番を失い、チームを出ていきました。たぶん、栗さんも、笘篠も、野村さんの時代にはいい思い出はないと思いますね......」
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著者プロフィール
長谷川晶一 (はせがわ・しょういち)
1970年5月13日生まれ。早稲田大学商学部卒。出版社勤務を経て2003年にノンフィクションライターとなり、主に野球を中心に活動を続ける。05年よりプロ野球12球団すべてのファンクラブに入会し続ける、世界でただひとりの「12球団ファンクラブ評論家(R)」。主な著書に、『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間 完全版』(双葉文庫)、『基本は、真っ直ぐ──石川雅規42歳の肖像』(ベースボール・マガジン社)、『いつも、気づけば神宮に 東京ヤクルトスワローズ「9つの系譜」』(集英社)、『中野ブロードウェイ物語』(亜紀書房)、『名将前夜 生涯一監督・野村克也の原点』(KADOKAWA)ほか多数。近刊は『大阪偕星学園キムチ部 素人高校生が漬物で全国制覇した成長の記録』(KADOKAWA)。日本文藝家協会会員。