秦真司が証言「野村克也さんのID野球の成功は、関根潤三さんが遺してくれた土台があったからこそ」 (3ページ目)

  • 長谷川晶一●文 text by Hasegawa Shoichi

「あぁ、懐かしい。よく覚えています。ここ、下唇を5針ぐらい縫いました。ただ、走者とぶつかったのではなく、ボールを捕りに行ったところ、内野手と交錯したんです。ケガをするということは周りが見えていないということだから、たしかに関根さんの言うとおりですよね。自分としては、『ケガをしてでも捕球しよう』というガッツの表れだけど、関根さんのような超一流の人から見れば、『もっと慎重にいけよ』ということになるんでしょうね」

 そう語ると、「うれしいなぁ」と白い歯がこぼれ、「ちょっと(そのページの)写メ撮ってもいいですか?」と、秦は自分の携帯電話を取り出した。そして、こんな言葉を続けた。

「きっと関根さんは、志半ばでヤクルトを去ったと思うんです。僕らは、野村さんには優勝日本一という結果で恩返しができたけど、関根さんには何も恩返しができなかった。自分の実力のなさ、チームとしての力のなさ、そんなことを関根さんに対しては、ついつい感じてしまいます......」

【関根潤三が遺したもの】

 関根がスワローズのユニフォームに身を包んだのは1987年から89年までの3年だ。昭和から平成へと元号が変わったこの時期に多くの若手を鍛え上げ、そして後任の野村克也監督の下で、チームは大輪の花を咲かせた。その渦中にいた秦に尋ねた。「関根監督がスワローズにもたらしたものは何か?」と。しばらく考えると、秦は静かに口を開いた。

「決してネガティブ思考に陥ることなく、ポジティブ思考にするきっかけをつくってくれた監督だったと思います。たとえ、プレーで失敗したとしても、何度もチャンスを与えてくれることで、失敗への不安や怖さを取り除いてくれました。それは、当時の選手たちが関根さんからもらった財産だと思いますね」

 生前の関根は、自らのことを「育成の監督」と語っていた。前掲書『一勝二敗の勝者論』には、こんな一節がある。

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