秦真司が証言「野村克也さんのID野球の成功は、関根潤三さんが遺してくれた土台があったからこそ」 (2ページ目)
この発言にあるように、栗山は野村が監督に就任した90年シーズンを最後に、29歳という若さでユニフォームを脱いだ。表向きは「持病のメニエール病の悪化のため」と報道されたが、その背後には「野村との確執があった」という話もある。一方の笘篠も、野村との対立が原因で出番を失い、98年シーズンに広島東洋カープに移籍した。あらためて、秦は力説する。
「野村さんの指導に合わずにチームを去った選手がいる一方で、野村さんによってさらに飛躍した選手もいました。野村さんがもたらしたID野球はたしかにすごいと思うけど、それが成功したのは、関根さんが遺してくれた土台があったからこそだと僕は思います」
秦は何度も、「土台」という言葉を繰り返した。
【恩返しができなかったことが心残り】
第1回・川崎憲次郎編でも触れたように、監督退任後の90年に発売された関根の自著『一勝二敗の勝者論』(佼成出版社)には、「ヤクルトの息子たちへ」と題して、各選手へのメッセージが綴られている。秦についての一文を引用したい。
秦真司へ──
六十三年の巨人との東北でのゲームで、きみは走者とぶつかり、くちびるを裂くというケガをしたことがあった。トレーナーは「すぐ医者へ!」とさけんでいた。
「ハタ、医者へ行くのか?」
「いえ、大丈夫......です」
「ゲームに出るのか出ないのか、はっきりしろ!」
きみは裂けたくちびるをバンソウコウでとめて、ゲームを続けた。翌日も、傷口を医者で縫ったために、口をもぐもぐさせながらもゲームに出た。
みごとながんばりであったと思う。負傷は、名誉ではない。下手だから負傷するのだということがよくわかったはずだ。
これからも若手に見本を示すプレーを期待している。
秦のプレーに対して「みごとながんばりであった」と称賛しつつ、「下手だから負傷するのだ」と厳しく諭してもいる。この一文を読み上げると、秦の表情がほころんだ。
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