江川卓から通算9本塁打の理由を田代富雄が明かす「クセがわかっていた。だから打てたんだ」 (2ページ目)
だから江川はスピンを追い求めた。それは4歳から中学2年までいた静岡で過ごした時、天竜川での石投げが要因になっている。江川は小学校1年生から石投げをやっていて、100メートルほどもある向こう岸まで届かせるのを目標としていた。石を届かせるためにはどうしたらいいのかをずっと考え、たどり着いた答えが石を風に乗せる投げ方だった。その投げ方こそが、江川卓のピッチャーの原点と言っていい。
ボールは強い空気抵抗を受ければ、浮力がかかり落ちづらくなる。そのためには人間の力では及ばないほどのバックスピンが必要であるが、原理的にはそういうことだ。それを知ってか知らずか、江川はいかにスピン量を多くできるかを考えながらピッチングしていた。
【カーブのときだけ左肩が上がる】
江川はプロ入り4年目の夏に肩を痛めている。それ以降は、かつて怪物の名をほしいままにしていた威力あるストレートは激減し、コントロール重視のピッチングに転向せざるを得なかった。
それまでの大洋(現・DeNA)との対戦成績を見ると、79年は6試合登板で2勝1敗、防御率1.97。80年は6試合登板で3勝2敗、防御率1.88。81年は6試合登板で5勝0敗、防御率1.26。大洋をねじ伏せていたのがわかる。
堂々とした体躯からブルヒッターに思われがちな田代だが、じつは右中間方向にも打球を飛ばせる広角打法を目指していた。だが、チーム事情によりホームランを求められた。このことを田代に尋ねると、「ホームランを打ったといっても、現役19年で278本。数字的にはたいしたことない。80年、81年あたりはよかったけど」とうそぶく。
80年には35本塁打を放ち、以降、6年連続して20本塁打以上をマーク。だが、86年には13本と激減してしまった。
「この年に監督の近藤(貞雄)さんに干されたの。四角い顔が嫌いだって。当時、中日にいた大島(康徳)さんがオレのところに来て、『近藤さんはね、四角い顔が大嫌いだぞ。オレ、言われたから』と言うから、そんなことないだろうと思って近藤さんに聞いたら、『田代、オレは四角い顔が嫌いだから』と。そりゃねぇだろうと思ったよ(笑)。でもこれ、本当の話だからね。近藤さんははっきりしている監督で、打てば使う。86年は5月までに10本打って、大洋の貯金が2あったかな。チームの成績も良かった。ところが、オレが6月に骨折して離脱したら(引き分け2つを挟んで)13連敗。近藤さんは『田代の離脱が大きい』と言ってくれた」
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