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「受験番号22174をマークせよ」 江川卓の慶應大受験は前代未聞の報道合戦の末、まさかの結末を迎えた (4ページ目)

  • 松永多佳倫●文 text by Matsunaga Takarin

 しかし江川は、受験したすべての学部を不合格となった。受験失敗のニュースは速報で流れ、アナウンサーが「作新学院の江川卓投手が慶應義塾大学に落ちました」と読み上げ、雑誌では不合格について憶測めいた記事がいくつも躍った。たったひとりの高校生の受験合否が、これだけマスコミを騒がしたのは江川だけだろう。

 慶應受験と決めた時点から、合格が既成事実のように報道されていたため、周囲のショックは計り知れなかった。

 ドラフト1位候補の高校生を落とすことで、慶應はどんな受験生に対しても優遇せず、あくまで入試の学力だけで判断する公明正大な学府だと証明される。穿った見方をすれば、これほどの選手を落とすことで、慶應ブランドの価値を上げたとも言える。

 結局、江川とともに豊橋合宿に参加したメンバーのうち、永島と森川だけが現役合格し、ほかはすべて落ちた。そのなかで堀場は一浪して、慶應入学を果たした。

 江川の合否については、教授会でも紛糾したという。当時の大学関係者は次のように語る。

「江川の合否について教授会が開かれ、『一芸に秀でていれば、ある程度の学力レベルがあればいい』という古株の教授たちの考えよりも、若手の教授たちの『野球がうまいからといって慶應に入るよりは、まず一般の学生と同レベルの学力がなかったらしょうがないでしょう』っていう主張のほうが強かったらしいです」

 本来なら受かっていたという噂も流れるなど、さまざま憶測が飛び交った。だが、真相は藪の中であり、江川が慶應に落ちたという事実だけは変えようがない。東京六大学で野球をしたかった江川は急遽、法政大の二部を受験し、難なく合格を勝ちとった。

(文中敬称略)


江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している

著者プロフィール

  • 松永多佳倫

    松永多佳倫 (まつなが・たかりん)

    1968 年生まれ、岐阜県大垣市出身。出版社勤務を経て 2009 年 8 月より沖縄在住。著書に『沖縄を変えた男 栽弘義−高校野球に捧げた生涯』(集英社文庫)をはじめ、『確執と信念』(扶桑社)、『善と悪 江夏豊のラストメッセージ』(ダ・ヴィンチBOOKS)など著作多数。

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