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斎藤佑樹が30歳になって気づいた境地 「『人が喜ぶ顔を見たい』というスタイルで野球をやれていれば...」 (4ページ目)

  • 石田雄太●文 text by Ishida Yuta

【この投げ方ってマー君と同じだな】

 30歳になった時、プロ野球選手として、応援してくれている人たちに喜んでもらうためには何をしなくちゃいけないのか、ということをやっと考えるようになったのかな......。

 その発想はピッチングにもつながっていきます。何かにこだわるのがいいというわけじゃない。フォームでも、こうじゃないといけないというこだわりは捨てていいのかなと思ったりもしました。

 プロで8年、いろんな人にいろんなことを教えていただいて知識も増えましたし、野球をするうえでのテクニカルなこと、身体のことも勉強できたと思います。ただ、そういうものを得たことによって、自分が持っていた本能に近い感覚がちょっとぼやけたのかなとも思います。

 だから、本能に任せてみようと思ってつくったイメージは、まず足を高く上げて、そこから何もアクションを起こさずにスーッと前へ落ちて行くだけ。そのとき、踏み込んだ左足でピタッと止まったら右腕が自然と振られる感じ。そうすると目線はブレないし、コントロールも安定する。

 アクションをつけようとすればするほど、力んでしまって、ブレるし、安定もしない。そのくせスピードが出るかといったら、思うほど出ないんです。ああ、なるほど、こういう感覚なのかと思ったとき、ふと「この投げ方ってマー君(田中将大)と同じだな」と思いました。アクションをつけず、ストンと力を抜くだけで腕が振られている感じが、まさにマー君だったんです。「そうか、マー君はこの道のずーっと先を行っているのか。よし、じゃあ、僕もこの道を行ってみよう」と思いました。だからあの時期、ヤンキースのマー君のYouTubeをずいぶん見ていましたね。

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 2019年、ファイターズの栗山英樹監督はメジャーの野球から新たな発想を得ていた。オープナーとかブルペンデーと呼ばれる戦術をチームに取り入れようとしたのである。先発に5イニングを期待するのではなく、頭からの短いイニングを託す。打順の一回り、3回までを抑える力があることは斎藤もたびたび示してきた。新たな役割を託されることでチームに貢献できるかもしれない──斎藤はそんなプロ9年目を迎えようとしていた。

次回へ続く


斎藤佑樹(さいとう・ゆうき)/1988年6月6日、群馬県生まれ。早稲田実高では3年時に春夏連続して甲子園に出場。夏は決勝で駒大苫小牧との延長15回引き分け再試合の末に優勝。「ハンカチ王子」として一世を風靡する。高校卒業後は早稲田大に進学し、通算31勝をマーク。10年ドラフト1位で日本ハムに入団。1年目から6勝をマークし、2年目には開幕投手を任される。その後はたび重なるケガに悩まされ本来の投球ができず、21年に現役引退を発表。現在は「株式会社 斎藤佑樹」の代表取締役社長として野球の未来づくりを中心に精力的に活動している

著者プロフィール

  • 石田雄太

    石田雄太 (いしだゆうた)

    1964年生まれ、愛知県出身。青山学院大卒業後、NHKに入局し、「サンデースポーツ」などのディレクターを努める。1992年にNHKを退職し独立。『Number』『web Sportiva』を中心とした執筆活動とともに、スポーツ番組の構成・演出も行なっている。『桑田真澄 ピッチャーズバイブル』(集英社)『イチローイズム』(集英社)『大谷翔平 野球翔年Ⅰ日本編 2013-2018』(文藝春秋)など著者多数。

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