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若き日の掛布雅之が驚き 阪神の監督になった吉田義男が実践した「攻める守り」は芸術品 (3ページ目)

  • 浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo

――「攻める守り」という発想は、もともと掛布さんの中にもありましたか?

掛布 いや、そういう発想はなかったので衝撃的でした。なので、攻める守りをしなかった選手は怒られるのですが、積極的に動いた結果としてのミスに対しては、選手を責めることがありません。「むやみやたらと前に出ろ」ということではないのですが、とにかく攻めろ、ということです。

――守りのミスで、吉田監督に怒られてしまったエピソードはありますか?

掛布 いや、僕はそんなに怒られるタイプではなかったんです。意外と優等生な感じでやらせていただきましたんで(笑)。とにかくサードに打球が来たら、向かっていく。その姿勢だけは常に意識して守っていましたね。

【選手を「大人」として扱っていた】

――掛布さんに対する吉田監督の評価が高かったということかもしれませんね。ちなみに、吉田監督が1回目の監督を務められた時と2回目とで、違いを感じることはありましたか?

掛布 2回目の監督に就任された1985年、僕はちょうど30歳になるシーズンだったのですが、選手たちを「大人」として見てくれていたような気がします。自分自身が責任を持たないとダメだぞ、と思わされるような環境を作ってくれました。

――自主性を尊重してくれたということですか?

掛布 そうです。例えば、遠征に行って連敗が続いてチームの雰囲気が悪い時などは、吉田監督のほうから「門限無しだぞ」と言ってくれたり。外出などに関しては基本的に自由にしてくれていましたし、僕らのことを信頼してくれているんだなと。選手を自由にさせることは、監督としてすごく勇気のいることだと思うのですが、僕らは意気に感じて頑張ろうと思い ましたし、より責任感を持てるようになりました。

 吉田監督が1回目の監督をされていた時は、僕も若かったのでがむしゃらでしたし、吉田監督と話す機会はほとんどありませんでした。ただ、1985年は自分がチームの中心選手になっていて、吉田監督と話す機会もありました。その時に感じたのは、すごく選手のことを考え、大人として見てくれているということでした。

 僕が30歳で真弓(明信)さんが32歳、ランディ(・バース)が31歳、オカ(岡田彰布氏の愛称)が28歳、平田勝男が26歳でしたが、僕だけでなく、そういったレギュラーの選手たちをすごく信頼してくれていたと思います。

(中編:岡田彰布監督と吉田義男監督の共通点「守り重視」と「起用法」>>)

【プロフィール】
掛布雅之(かけふ・まさゆき)

1955年5月9日、千葉県生まれ。習志野高校を卒業後、1974年にドラフト6位で阪神に入団。本塁打王3回、打点王1回、ベストナイン7回、ダイヤモンドグラブ賞6回、オールスターゲーム10年連続出場などの成績を残した。球団初の日本一になった1985年は不動の四番打者として活躍。1988年に現役を引退した後は、阪神のGM付育成&打撃コーディネーター、2軍監督、オーナー付シニア・エグゼクティブ・アドバイザー、HANSHIN LEGEND TELLERなどを歴任。野球解説者や評論家、YouTubeなど活躍の場を広げている。

著者プロフィール

  • 浜田哲男

    浜田哲男 (はまだ・てつお)

    千葉県出身。専修大学を卒業後、広告業界でのマーケティングプランナー・ライター業を経て独立。『ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)』の取材をはじめ、複数のスポーツ・エンタメ系メディアで企画・編集・執筆に携わる。『Sportiva(スポルティーバ)』で「野球人生を変えた名将の言動」を連載中。『カレーの世界史』(SBビジュアル新書)など幅広いジャンルでの編集協力も多数。

【写真】1992年の猛虎伝〜阪神タイガース名場面集

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