ヤクルト奥川恭伸は来季、完全復活なるか 22球に込めた思いと手応え「やりたいと思っていることの70%くらいはできた」
ヤクルトの秋季キャンプ(愛媛・松山)。坊っちゃんスタジアムの報道受付には、毎朝当日の練習スケジュールを印刷した用紙が置いてあり、左端には参加メンバーの名前と背番号が、投手、捕手、内野手、外野手の順に並んでいる。
第2クール2日目の11月10日には、参加メンバーの上から2番目に「18 奥川恭伸」の名前が記されていた。
奥川はこの日の練習終了後、現在のコンディションについて「(松山に)いるというのは、そういうことです」と、いつもの笑顔を見せたのだった。
11月11日、愛媛マンダリンパイレーツとの練習試合で3回無失点の好投を見せた奥川恭伸 photo by Sankei Visualこの記事に関連する写真を見る
【完全復活へ一進一退】
話は遡ること1カ月前の10月8日。奥川はフェニックス・リーグに参加するため宮崎入りし、3試合ほど投げる予定でいた。翌日、西都原運動公園野球場での練習後、この期間の位置づけについてこう話していた。
「まだ足のケガからのリハビリ段階なので、相手を抑える、抑えないというところよりも、投げること、しっかり球数をこなすことだけを考えています」
今季の奥川は右ヒジ痛からの完全復帰を目指し、イースタン・リーグで登板を重ねていた。ところが、「100球投げられるところは証明できました」と一軍復帰も見えてきた7月上旬、練習中に左足首を負傷。10月1日の日本ハムとのイースタン最終戦(鎌ケ谷)で実戦復帰してからのフェニックス・リーグ参加だった。
奥川はこの時の取材で、「来季に向けて」と何度も繰り返した。
「どうしても僕にはケガが多いというイメージがあると思うので、そこのアピールというか......。このフェニックスや、そのあとの松山キャンプ、オフの12月は来季に向けての準備期間じゃないですけど、シーズンはもう終わったので気持ちとしてはシフトチェンジしています。練習もフェニックスでのゲームを考えてというより、来年に向けてということでやっていきたいです」
10月10日に予定されていた登板は、前日の試合が雨天中止になった影響でスライド。次の登板は明らかになっていなかったが、調整は順調に進んでいるように見えた。朝は宿舎からランニングで球場入り。傾斜を確認するためプルペンにも入り、キャッチボールや遠投はいつもどおり念入りに行なっていた。
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著者プロフィール
島村誠也 (しまむら・せいや)
1967年生まれ。21歳の時に『週刊プレイボーイ』編集部のフリーライター見習いに。1991年に映画『フィールド・オブ・ドリームス』の舞台となった野球場を取材。原作者W・P・キンセラ氏(故人)の言葉「野球場のホームプレートに立ってファウルラインを永遠に延長していくと、世界のほとんどが入ってしまう。そんな神話的レベルの虚構の世界を見せてくれるのが野球なんだ」は宝物となった。以降、2000年代前半まで、メジャーのスプリングトレーニング、公式戦、オールスター、ワールドシリーズを現地取材。現在は『web Sportiva』でヤクルトを中心に取材を続けている。