谷佳知は大学時代にリーグ三冠王でも指名漏れ 失意のなか進んだ社会人で覚醒し、プロへの道が拓けた (2ページ目)

  • 水道博●文 text by Suido Hiroshi

── 23歳で出場したアトランタ五輪は、アマチュアのみのメンバー構成でした。野球殿堂入りした川島勝司監督のもと、福留孝介さん(元中日ほか)、松中信彦さん(元ダイエー、ソフトバンク)、井口資仁さん(元ダイエーほか)、今岡誠さん(元阪神ほか)など、錚々たるメンバーです。

 96年のドラフトは「当たり年」と言われていますね。五輪メンバー以外にも、黒田博樹(元広島ほか)、和田一浩(元西武ほか)、小笠原道大(元日本ハムほか)といった選手がドラフト指名されました。

【仰木監督、中西コーチとの運命的出会い】

── 95、96年とパ・リーグ連覇をしているオリックスですが、それだけに外野陣はイチローさんをはじめ、田口壮さん、本西厚博さん、高橋智さんなど、充実していました。なぜオリックスを逆指名(2位)したのですか?

 「優勝したい」「関西のチーム」という2つの理由でした。プロ入り後、仰木彬監督(当時)から「アトランタ五輪のテレビ放映は(試合のない)深夜だったから、本塁打を見ていたぞ」と言われました。仰木監督が私を推薦してくれたそうです。守備では、田口さんやイチローに"外野のポジショニング""打球方向の傾向"などを教わりました。それがのちのゴールデングラブ賞を4度受賞につながりました。

── 97年から2000年まで一緒にプレーしたイチロー選手の印象に残っていることは何ですか?

 練習に取り組む姿勢がほかの選手と全然違いました。寮生活で24時間練習できる環境にあったので、試合終了後でもいつもひとりでマシン打撃をしていました。繊細なコントロールの日本人投手を相手にして7年連続首位打者を獲得したのですが、メジャーのスピードに対応できれば、かなりの成績を残すことは容易に想像できましたね。

── 谷さんですが、プロ1年目の97年はシーズン84安打、2年目にレギュラーを獲得します。プロでやっていける自信めいたものをつかんだきっかけは何でしたか?

 厳しい世界ですから、1年目はついていくだけで必死でした。やっていけるかなと思ったのは3年目ぐらいからです。僕はラルフ・ブライアント(近鉄ほか)が好きでした。野球人としてホームラン打者は左右関係なく憧れます。しかし、プロに入って「自分のスタイルやタイプを気づかないといけない」と思いました。ホームランを追いかけていたら、1年でプロ野球人生は終わっていたと思います。当時打撃コーチだった中西太さんにバッティングを教わりました。89年のブライアントの「西武戦1日4本塁打」のとき、近鉄は仰木監督、中西コーチだったのですが、このふたりの指導を受けたのも何かの縁かもしれませんね。

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