プリンスホテルからプロ入りした橋本武広は根本陸夫に「潰れるか、伸びるか」二択を迫られた (4ページ目)
【潰れるか、伸びるかの二択】
大会後、ハワイへの優勝旅行を経て、11月のドラフト。石山の許可が下り、橋本自身、前年から意識していたプロへの道が開け、3位指名されたダイエーに入団した。1年目はフォームで試行錯誤するなど苦労したが、2年目に権藤博(元中日)が投手コーチに就任。自分本来の長所を生かす指導に気持ちがラクになった。そして翌92年オフ、根本陸夫(元近鉄)が監督となる。
「大将、すごかったですよ。僕のことをプリンスの時から知っていたからか、呼ばれて、キャンプで毎日400〜500球投げされられました。シーズン中もバッティングピッチャーで30分投げたあと、ゲームで投げて......。でも、言われたのが『社会人から25歳で入ってもう4年目や。潰れるか、伸びるか、2つに1つの選択肢しかないから』って」
根本に助言された橋本は、もうつぶれてもいいと思いながらも、納得するまでやってみようと必死に投げ込んだ。球数を投げるほどに余分な力が抜け、いい投げ方になり、いい球が行くようになり、しかも肩・ヒジにケガはなかった。93年は20試合に救援登板し、防御率は前年までの5点台から3点台へと改善された。そのオフに大きな転機を迎える。
「11月に根本さんに呼ばれたんです。あ、クビだな、これで自分の野球、終わりかと思って行ったら『ハシ、所沢に帰れ』と。『ハイ?』って聞いたら『西武に行け』と」
93年11月16日、西武・秋山幸二外野手、渡辺智男投手、内山智之投手−ダイエー・佐々木誠外野手、村田勝喜投手、橋本武広投手の3対3の交換トレードが成立。移籍した橋本は「一軍でやるのであれば、とにかく左打者を抑えることに集中してくれ」と投手コーチの森繁和に言われ、西武では自分のはっきりした仕事があると実感。中継ぎとして生きていくことになる。
「節目、節目でいい方に出会えたかなと。プリンスで石山さんにお会いして、プロで悩んでいる時に権藤さんが来られて。そのあと、根本さんが来られて投げ込んで、いいトレードをしていただいて。だから僕、7年続けて50試合以上登板できたと思いますし、いろんな方との出会いが僕の財産です」
現在、橋本は解説の仕事をしながら、社会人野球の三菱自動車岡崎で投手コーチを務めている。選手の欠点は目に入りやすいが、それをすぐ指摘して直すような指導はしない。まず見て、この選手のいいところは何だろう、というところから入る。権藤から習った方法を生かしている。
(=敬称略)
著者プロフィール
高橋安幸 (たかはし・やすゆき)
1965年、新潟県生まれ。 ベースボールライター。 日本大学芸術学部卒業。 出版社勤務を経てフリーランスとなり、雑誌「野球小僧」(現「野球太郎」)の創刊に参加。 主に昭和から平成にかけてのプロ野球をテーマとして精力的に取材・執筆する。 著書に『増補改訂版 伝説のプロ野球選手に会いに行く 球界黎明期編』(廣済堂文庫)、『根本陸夫伝 プロ野球のすべてを知っていた男』(集英社文庫)など
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