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プリンスホテルからプロ入りした橋本武広は根本陸夫に「潰れるか、伸びるか」二択を迫られた (3ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Sankei Visual

「もう、大変なことです。プリンスは都市対抗に出るのが当たり前。たしかに予選は大変だけれど、通過点と意識づけされたチームでしたから。いかに都市対抗で優勝するかを考えて、毎日練習していましたから。それなのに1回戦で負けたら『何やってんだ?』です」

 しかも同年のドラフト。石井は西武、小川はオリックス、中島は日本ハムに指名されてプロ入り。投打の主力が抜けたプリンスは周りから「史上最低のチーム」と言われることもあった。だが、それでも翌89年2月のキャンプでの猛練習を経て、3月のスポニチ大会で優勝。87年の都市対抗準決勝で敗れた東芝と決勝で当たって8対6で勝ち、橋本は胴上げ投手になった。

「僕らは『打倒東芝』で、僕自身、都市対抗でやられていたから東芝にだけは勝ちたかったんです。で、その年の都市対抗予選は最後の最後、みんなで何とか勝って、負けたら終わりの第三代表でした」

 第60回の記念大会。プリンスは1回戦のJT戦に6対3で快勝し、2回戦のトヨタ自動車戦は4対3。5回から5イニングを零封した二番手・橋本の好投が大きかった。準々決勝の河合楽器戦は1対0と、先発の白井弘泰(日大二高)から橋本、補強の竹田彰(JR東日本)につないでの完封リレー。準決勝の松下電器戦も延長13回で3対2と、ことごとく接戦を制した。

「エースがいなくて、継投、継投でね。そのなかで竹田さんと近藤さん(光夫/東京ガス)の補強したピッチャーが頑張ってくれて。僕は決勝まで4試合に投げて防御率0.00でしたけど、ピッチャー陣全体、全試合で3点以内に抑えたのはすごいことですよ。しかも、金属バットの時代、その年からDH制になったのに被本塁打ゼロでしたから」

 決勝の大昭和製紙北海道戦。打線が爆発して8対3で勝ち、創部11年目で初の優勝。石山の「予言」どおり、6回から三番手で登板した橋本が胴上げ投手になった。全試合継投の投手陣を巧みにリードし、打力も光った捕手の瀬戸山満年(中京大中京高)が最高殊勲選手賞(MVP)に相当する橋戸賞を受賞した。

「僕自身、点差が開いた決勝がいちばんラクと言えばラクでしたけど、優勝の瞬間はね、このために1年間、練習してきたんだという思いだけでした」

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