斎藤佑樹が振り返る運命の日「日本ハムはまったくのノーマークだった」「正直、巨人への想いはありました......」 (4ページ目)
【日本ハムからまさかの1位指名】
それがいざドラフトとなったら、日本ハムも僕を1位で指名してくれたので、本当にビックリしました。指名する前は何のアクションも起こさないという話は聞いていましたが、それにしても、こんなに何にもないんだということにはあらためて驚かされましたね。應武監督もビックリしていた......何も連絡がなく指名をしてくることもあるんだなぁ、と(笑)。
ヤクルト、ロッテ、ソフトバンク、日本ハム......4球団が1位で指名してくれて、クジ引きの結果、日本ハムが指名権を獲得した瞬間は寮のテレビで見ていました。真っ先に思ったのは、北海道は高校の時に甲子園の決勝で戦った駒大苫小牧のふるさとだ、ということでした。
僕は群馬で生まれ育って、高校から東京へ出てきて、なんとなく関東に馴染みがありました。だから僕はずっと関東にいるんだろうなという思い込みがあったんです。それが人生を左右するドラフトで北海道と縁が結ばれるとは......それはまさかでしたし、僕の運命はこういう流れだったのかという気持ちになりました。
もし関東にそのままいたら、自分のテリトリーのなかだけでものを見ていたような気がするんです。それがいきなり北海道へ行くことになって、ものの見方の幅はすごく広がるんじゃないかという期待はありました。僕は日本ハムに入って、北海道と縁を結んでもらって、本当によかったと思っています。
巨人ですか? 正直、巨人への想いはありました......あったというより、強かったと言ったほうが近かったと思います。子どもの頃から巨人のことは好きでしたし、球界を引っ張ってきたリーダーですから、巨人に入りたいと思っていた時期もありました。でも、その時は巨人とのご縁はなかったということなのかもしれません。
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ドラフトを終え、大学を卒業したらプロ野球選手として北海道日本ハムファイターズのユニフォームを着ることが決まった。プロからの高い評価を受けたことでピッチャーとしてひとつの目標を成し遂げた斎藤は、早大の主将として、もうひとつの目標だったラストシーズンのリーグ優勝を懸けた、最後の早慶戦に挑むことになる。
(次回へ続く)
著者プロフィール
石田雄太 (いしだゆうた)
1964年生まれ、愛知県出身。青山学院大卒業後、NHKに入局し、「サンデースポーツ」などのディレクターを努める。1992年にNHKを退職し独立。『Number』『web Sportiva』を中心とした執筆活動とともに、スポーツ番組の構成・演出も行なっている。『桑田真澄 ピッチャーズバイブル』(集英社)『イチローイズム』(集英社)『大谷翔平 野球翔年Ⅰ日本編 2013-2018』(文藝春秋)など著者多数。
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