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江藤慎一の打撃技術に「ミスター・ロッテ」有藤通世は驚き。「どんな球どんな投手にも対応できる」 (3ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko
  • photo by 産経新聞社

 6月3日、大手町パレスホテルでロッテは江藤の入団記者会見を開いた。背番号12のユニフォームに袖を通した席上、江藤は「入団は嬉しいが責任も感じている」と語っている。

 江藤獲得は何より、永田雅一オーナーが熱望していた。大映の創設者で「日本映画界の父」と呼ばれた永田は、超の字がつくワンマン経営者であった。大言壮語しながら、新規事業を次々に開拓するさまは永田ラッパと呼ばれた。日本ダービーを制したトキノミノルの馬主であり、ベネチア国際映画祭グランプリ作品「羅生門」のプロデューサーでもある永田は、プロ野球球団の経営にも並々ならぬ情熱を注ぎ、1962年には私財を投じて南千住にプロ球団のための東京スタジアム(東京球場)を造り上げていた。永田がオーナーの大毎(=大映と毎日新聞)オリオンズは1964年に東京オリオンズと名前を変え、さらに1969年1月からは、ロッテをメインスポンサーとすることで、ロッテオリオンズという名称になったが、実質的な経営は大映の永田が長期に渡って担っていた。

 この名物オーナーが、江藤が野球界から去ることを惜しんだのである。「あれだけの大打者を捨てておくのは球界の損失だ。うちとしてもできるだけのことはしてやりたい」と公言し、任意引退となった早い段階から、江藤に直接電話をかけ続けてきた。当初、江藤は感謝の言葉を返しつつも「中日の江藤で終わりたい」と涙声で固辞していたという。しかし、正式にトレード相手も決まったことで名物オーナーのチームに晴れて移籍となった。

 入団が決まると、江藤はパ・リーグの視察を兼ねて東映対西鉄の観戦に後楽園へ行った。その目の前で水原との仲裁の労をとってくれた張本が目の覚めるような11号2ランを左中間に叩き込んだ。この時の感激を江藤は著書にこう書いている。「『ハリの奴、俺の球界復帰を祝ってプレゼントしてくれたんだな』試合が終わったら、乾杯しましょうと言ったあのひとなつこい顔が三塁ベースを回って来る。『ようし、わしもやるぞ!』」(『闘将火と燃えて』鷹書房)

 有言実行の男は6月4日に荒川区南千住の東京球場に向かい、身体を動かした。10日間で5キロの減量を成し遂げ、6月18日には一軍に合流した。

 移籍先には、後に「ミスター・ロッテ」と呼ばれる2年目の大型三塁手がいた。有藤通世(ありとう・みちよ)である。近畿大学から入団した前年には、打率.285、本塁打21本で新人王を獲得している。

 有藤は、シーズン途中に移籍して来た江藤のことをこんなふうに見ていた。

「僕はアマチュア時代から江藤さんのことは知っていましたから、ああ、あの人がチームに来るんだ、という思いはありましたね。ただ、まだ自分は2年目で目の前のことで精いっぱいでしたし、入団して5年くらいは周りを見られなかったので、トレードがどういうかたちで行なわれたのかもよくわからなかったです。江藤さんとは実はロッカーが隣になったんです。僕は縦社会の人間ですから、びくびくしながら、挨拶したんですが、よく気さくに『アリがんばれ!』と声をかけてくれました」

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