「最後の近鉄戦士」坂口智隆の引退に喪失感。OB磯部公一が語る、いてまえ打線「天才はいなかったけど、練習量がすごかった」 (4ページ目)

  • 栗田シメイ●取材・文・撮影 text by Kurita Shimei
  • photo by Sankei Visual

――当時の選手たちとは連絡を取り合ったりはするんでしょうか?

礒部:「回数自体はそこまで多くはないですね。あ、でも今年、タフィ(ローズ)とは久しぶりに一緒に仕事をしたんですよ。相変わらず元気そうで、『ヨッシャー!』など変な日本語を使っていました(笑)。ノリとは時々連絡を取る程度ですが、やはり2004年でチームがバラバラになってしまった、というのは大きいと思いますね。今でもみんなで集まって話したいな、と思うこともありますよ」

――礒部さんから見て、近鉄魂は球界にどのような形で残っていってほしいと感じますか?

礒部:「今年亡くなられた元球団代表の足高圭亮さんとは、近鉄を離れたあともおつき合いがずっと続いていました。昔の話や先人の方々に教えられたことを、私も足高さんから伝え聞いていたんです。その時に感じたのは、やはり近鉄という球団は"雑草魂"があり、圧倒的な練習量で才能を伸ばしてきたということです。

 今NPBにいるコーチたちは、近鉄時代の経験を活かして選手育成に当たっている。そして私自身も近鉄で学んだこと、歴史の重みはさまざまな形で伝えていきたい。それらが近鉄魂として球界に受け継がれていってほしい、というのが私の願いでもあります」

(インタビュー3:が苦手だった投手5人をランキング。ダルビッシュ有ら大エース、パ・リーグ時代は荒れ球で「ガンガン攻めてきた」投手も>>)

【プロフィール】
礒部公一(いそべ・こういち)

1974年3月12日生まれ、広島県東広島市出身。三菱重工広島時代、1996年のドラフト会議で近鉄バファローズから3位指名を受け入団。2年目からレギュラーに定着して"いてまえ打線"の一角を担い、2001年には12年ぶりのリーグ優勝に貢献した。2003年から選手会長を努め、翌年の近鉄とオリックスの合併問題・球界再編問題の労使交渉に奔走。2005年に東北楽天ゴールデンイーグルスに創設メンバーとして加入し、初代選手会長に就任。2008年に引退するまで「ミスターイーグルス」としてチームを牽引した。引退後はコーチとして球団に残り2017年まで後進の育成に努めた。2018年からは解説者として活躍中。
現役時代の通算成績・・・1311試合出場、打率.281、1225安打、97本塁打、517打点

【ライタープロフィール】
栗田シメイ(くりた・しめい)

1987年生まれ。広告代理店勤務などを経てフリーランスに。スポーツや経済、事件、海外情勢などを幅広く取材する。『Number』『Sportiva』といった総合スポーツ誌、野球、サッカーなど専門誌のほか、各週刊誌、ビジネス誌を中心に寄稿。著書に『コロナ禍の生き抜く タクシー業界サバイバル』『甲子園を目指せ! 進学校野球部の飽くなき挑戦』など、構成本も多数。南米・欧州・アジア・中東など世界30カ国以上で取材を重ねている。

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