元ソフトバンク攝津正が「本当に嫌だった」日本シリーズの登板。秋山幸二監督に「鬼の采配」と感じた (2ページ目)

  • 浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo
  • photo by Sankei Visual

――そうした負の連鎖を払拭したのが2011年。攝津さんが先発に転向して14勝を挙げたシーズンでした。攝津さんはCSファイナルステージ2戦目、中日との日本シリーズでも3戦目に先発して勝利投手になっていますが、7戦目では3点リードの9回2死一塁の場面でマウンドに上がり、胴上げ投手となりました。

攝津(ブライアン・)ファルケンボーグが右腕に打球を受けて降板した試合ですね。それで急遽、森福(允彦)を挟んで、最後のひとりの場面で僕が登板することになりました。

――その試合でのリリーフ起用の可能性は事前に伝えられていたんですか?

攝津 日本シリーズは3戦目で先発して以降、ずっと中継ぎで投げられるように待機していました。ただ、あの登板に関しては事前に伝えられていたわけではなく、ファルケンボーグのアクシデントによるものなので想定外でしたね。

 当時のクローザーは馬原(孝浩)さんでしたが、そのシーズンはあまり調子がよくなくて、日本シリーズの1戦目や2戦目で負け投手になるなどチーム事情もいろいろあったんです。馬原さんもブルペンには控えていたんですが、最後は僕が呼ばれて......。

 馬原さんとは自主トレもずっと一緒にやらせてもらっていたので、本当に嫌な登板でした。その時のことは鮮明に覚えていますし、心が苦しかったです。個人的には非情な采配、鬼の采配だなとも思いましたが、3対0と僅差でしたし、「最後の最後まで勝ちにこだわる、本当の勝負師だな」と思いましたね。

――秋山監督とは最近もお会いする機会があるとのことですが、その時の登板の話もしますか?

攝津 「順調にいったら馬原だったけど、あの時は調子が悪かったから仕方がなかったんだ」という話はしていましたね。

―― 一方、野手でいえば、当時は柳田悠岐選手、中村晃選手、今宮健太選手らが若手として一軍の試合に出始めた頃でもありました。秋山監督のもとで出場機会を増やし、頭角を現わしていきましたね。

攝津 彼らは控えとしてベンチにいましたが、秋山監督が"育てながら"起用していくという感じでしたね。その頃からベンチの雰囲気も含めて、強いチームに変わっていった印象があります。

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