「もう我慢の限界だ」指揮官からの手紙に発奮も...阪神の救世主となった野田浩司にまさかのトレード通告 (4ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Sankei Visual

「『えっ、何?』って思って。最初、『監督と会ってくれ』ってことだったので、もしかしたら『来年もう1回、抑えをやってくれ』ってことかなと。田村さんがヒジに不安があったので。それで中村さんと会う約束をしたあとにすぐ球団フロントから電話がかかってきて、一瞬のうちに『会う人が社長に変わったから』って。うわ、これはもうトレードしかないやんか......と。ショックでした」

 全くの寝耳に水だった。兵庫・芦屋のホテルに呼び出されて球団社長と面会すると、「打線が打てなくて優勝できなかったから、打てる人がほしい」との説明を受け、オリックスのベテラン好打者の松永浩美とのトレードを通告された。野田は「一日、持ち帰らせてください」と願い出た。翌朝、起きて頬をつまんだ。痛かったので夢ではなく、受け入れるしかなかった。

「ちょうど年末だったんで、そこはよかったんです。年明けで気持ちが切り替わりましたから。新天地でやったろうじゃないか、と。もう家を買ってたんですけど、住まいも移して。オリックスには知っている人がいたし、同じ関西圏っていうのもよかったです」

 93年、野田は17勝を挙げ、最多勝のタイトルを獲得。同年から3年連続2ケタ勝利を挙げるなど先発として活躍を続け、95年のリーグ優勝、96年の日本一に貢献。95年には1試合19奪三振の日本記録を達成した。移籍で大きく花開いた投手人生は右肘故障もあって99年で幕を閉じたが、12年間の現役生活のなか、92年はどう位置づけられるだろうか。

「まずはその年に限らず、タイガースでの5年間で自分は成長させてもらったし、引退の時は大石さんに電話したんです。『いろいろありましたけど、大石さんに教えてもらったおかげで、自分で身についたものがあって、野球人生をまっとうできました』って言わせてもらって。

 そして92年のあの優勝争い。あの大観衆に注目されるなかでできたっていうのも、ひとつの財産になったと思うし、そこで悔しさを味わった。これもひとつ、自分自身の経験としては、オリックスで優勝できたことにつながっていると思います」

(=敬称略)

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