コーチとの確執で一軍昇格を拒否。92年前半戦、阪神・野田浩司の気持ちはくすぶり続けていた (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Sankei Visual

 熊本・多良木高時代からプロに注目されていた野田は、社会人の九州産業交通を経て、87年のドラフトで1位指名されて入団。スリークォーターから繰り出す快速球とフォークを武器に、1年目から42試合に登板して17試合に先発。3勝13敗ながら規定投球回に到達し、翌89年も43試合。90年も先発あり、リリーフありで37試合に投げ、11勝5セーブを挙げた。

「3年目は開幕から抑えを任されたんだけど、結果が悪すぎてクビになって、夏から先発に回って。その頃からなんとなく、自分でいい感じが芽生えてきたんですけど、それはピッチングコーチの大石(清)さんに鍛えられたからだと思います。とくに中込なんかはかわいがられて、相当に面倒を見てもらっていたけど、僕もかわいがってもらいました」

チヤホヤされるけど勘違いするな

 大石コーチは現役時代に広島、阪急(現・オリックス)で活躍。広島では60年から3年連続20勝を挙げたエースで、阪急ではリリーフとして67年からのリーグ3連覇に貢献した。引退後は阪急、近鉄、広島、日本ハムで投手コーチを歴任し、88年から阪神で指導。当初は二軍担当だったが、90年、野田が3年目を迎えた時に一軍投手コーチに就任した。

「大石さんは練習もめちゃくちゃ熱心で、今では考えられないぐらいボールを投げました。たとえば、遠征先でも朝起きたら、まずネットピッチング。ホテルに練習できる場所を設けてあって、眠い目をこすりながら投げるわけです。先発して次の日でも、内容が気に入らなかったら『投げろ』と。それぐらい、厳しい人でしたけど、実際それで身についていきましたから」

 なにもかも教えられたとおりにやらなければいけないということはなかった。自分でやってみて、微妙に違うと思えば、コーチと対話する。また違うことをやってみて、対話するという繰り返し。その指導方針の基本線は変わらなかったが、微調整をしながら球数を投げていくうちに「自分のなかでピッチングってこういうことなんやな」とわかってくるようになったと野田は言う。

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