少年時代のロッテ髙部瑛斗に「左打ち」を進言したのは松永浩美だった。今季の活躍にも「アキならもっとできる」 (3ページ目)
――その後、東海大甲府高へ進学することになりますね。
松永 最初は東海大甲府高ではなく、野球塾で一緒にやっていた先輩が進んだ高校を希望していました。ただ、その先輩は「フライを上げるぐらいなら転がせ」といった高校での指導方法が合わずに、伸び悩んでいたんです。うちの野球塾では「転がせ」とは言わず、「強い打球を遠くに飛ばせ」と言ってきたので、ギャップもあったのかもしれません。
そういったことを聞いたアキやお父さんから、「バッティングフォームを変えないといけないなら、その高校への進学はやめたほうがいいですか?」「どこかありますか?」といった相談を受けました。それで「知っているところだったら......」と東海大甲府の村中秀人監督に電話を入れて、「一度見てもらえませんか?」と紹介したんです。それが、国士舘大学を経てのプロ入りへとつながっていく。アキが持っている"運"の強さですね。
――東海大甲府高では3年の夏に山梨県大会を制し、甲子園でも3試合で13打数4安打と活躍しました。
松永 高校1年生の1年間(練習試合、公式戦)で、200本近くヒットを打ったという話を聞いた時は、「それくらいのことはやるだろう」と思いました。これはアキのお父さんから聞いた話ですが、バッティングフォームは頑なに変えなかったようですね。
村中監督にも、「この打ち方でずっとやってきて、ある程度の実績もあるので、僕はこの打ち方を変える気はありません」と言ったらしいんですよ。のちに、村中監督から「あんなに信念の強い子は初めて見た」という話も聞きましたが、アキらしいなと思いましたね。
――その後に進んだ国士舘大では、東都大学リーグ2部で歴代最多の129安打を放つ活躍を見せました。
松永 大学入学当初は高校と大学のピッチャーの質の違いに苦労している様子も見られましたが、そういった壁を乗り越えていきましたね。
――その後、ロッテからドラフト3位で指名を受けてプロ入りするわけですが、その際は何か話をしましたか?
松永 ドラフト会議の当日や翌日に何回か電話があったのですが......私がちょうど野球塾をやっていて出られなかったんです。それでドラフト会議の翌々日にかけ直したら、「ドラフトでロッテから指名を受けました」と。「知ってるよ!だからどうした」って返しましたけど(笑)。
「おめでとう」という言葉は言ってないと思います。プロに入ることはアキの夢ではあったんですが、そこで終わりではないですから。野球塾の頃から「プロに入ったら終わり、と思うのは大間違いだよ」と伝えていましたし、プロでいい成績を残していくことを目標にするべきなので。
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