「長嶋さんの野球はしっちゃかめっちゃか」。5年で巨人をやめた投手 (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

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 ただ、その後に小川投手がどうなったのか、特に追いかけることはしていなかった。当然ながら、著書を読むほどに未知の事実が頭に積み上げられた。

 小川さんは広島県福山市に生まれ、64年、尾道商高3年時にエースとして選抜甲子園大会に出場して準優勝。早稲田大に進学して東京六大学リーグで活躍し、社会人の日本鋼管を経て、72年のドラフト7位で巨人に入団する。2年目の74年にはチーム2位の12勝を挙げ、翌75年はチーム最多タイの53試合に登板して8勝10敗4セーブ、防御率3.75という成績を残していた。

 が、76年は36試合の登板で3勝。わずか9試合の登板に終わった77年限りで退団すると、78年1月、30歳のときに単身で海を渡ったのだった。著書には『日・米・韓・メキシコ・カナダ』と副題が付くのだが、この5つの国名は小川さんの球歴に直結している。

 79年から2年間、北米のマイナーリーグで登板し、帰国後、広島に在籍した小川さんは83年限りで退団する。翌84年はメキシコでプレーして現役を引退したあと、韓国・三星、ロッテで投手コーチを歴任。2001年からはメジャーリーグ球団の極東スカウトを3年間務めた。野球で諸国を巡ったから『放浪記』なのだと合点がいった。

 一方、他の文献では、10年3月、小川さんが62歳にして高校球界復帰の条件を満たした経緯が伝えられていた。すなわち高校野球の指導者を目指し、大分の高校で教諭となって2年間、英語を教えていたという。(当時の元プロの復帰条件は教諭歴2年。その後、13年から大幅に条件が緩和され、学生野球資格回復制度の研修会を3日間、受講することで復帰可能となった)

 なぜ、還暦を過ぎてなお行き着こうとしている場所が高校野球なのか。そもそもなぜ、30歳の若さで巨人を退団したのか。そしてなぜ、アメリカはじめ諸外国を野球放浪することになったのか。知りたいことが次々に積み重なって、取材を申し込んだ。

 神奈川・相模原市のご自宅から近いというJRの駅。午後1時に改札で待ち合わせて、隣接するビルのカフェテリアで小川さんと面と向かった。面長の顔に黒々とした角刈りは精悍そのものだが、銀縁眼鏡の奥の眼差しは優しい。僕は取材主旨を説明し、まずは「なぜアメリカだったのか」、小学6年のときの記憶も交えて尋ねた。

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