鉄拳制裁、大乱闘劇、報復死球...セ・リーグ初のMVP捕手・中尾孝義が語る「戦慄のプロ野球80年代」

  • スポルティーバ●文 text by Sportiva
  • photo by Sankei Visual

 長嶋茂雄監督の解任、王貞治の引退というひとつの時代が幕を下ろすと同時に始まったプロ野球80年代。西武が黄金期を迎え、阪神が球団初の日本一に輝き、伝説の『10・19』など、今も忘れられない名シーンが繰り広げられた。その一方で、乱闘や鉄拳制裁など、今ではなかなかお目にかかれないド迫力シーンも満載。81年にプロ野球入りし、82年に捕手としてセ・リーグ初のMVPに輝いた中尾孝義氏に当時の思い出を語ってもらった。

中日80年代の3人の指揮官

── 中尾さんは1981年から中日でプレーされましたが、当時のチームはどんな雰囲気でしたか。

「アマチュア時代に、プロにはライバルになりそうなルーキーにつらく当たったり、意地悪したりする選手がいるから......と聞いていたのですが、そういうのはまったくなく、逆に驚きました。プロの集団ですので個性はありましたけど、みんな優しかったですし、チームもアットホームな雰囲気で、すごくやりやすかったですね」

── 中尾さんの入団時、星野仙一さんはまだ現役をやられていました。星野さんの印象は?

「やっぱり怖かったですよ。星野さんはすごく優しい時と近寄り難い時の差が激しいというか、ほかの選手とはオーラが違いましたね。何度か試合でバッテリーを組ませてもらったことがあるのですが、当時監督の近藤(貞雄)さんから『試合ではピッチャーよりキャッチャーのほうが偉いから、おまえのやりたいようにやれ』と言われていたので、星野さんからサインに首を振られても変えなかったんです。そしたら『首を振ってるのに、サインを変えなかったのはおまえだけだ!』って怒鳴られて......そりゃ大変でしたよ(笑)」

── 中日時代は近藤貞雄監督、山内一弘監督、星野仙一監督と、3人の指揮官のもとでプレーされました。それぞれどんな印象でしたか。

「近藤さんはグラウンドでしっかり働いてくれればいいというタイプで、私生活については何も言いませんでした。飲みに行こうが、門限を破ろうが、グラウンドで結果さえ出せばそれでよかった。その代わり、試合で結果を残さないとスタメンを外されることもあるし、二軍に落とされることもある。ある意味、シビアでしたね。

 山内さんはグラウンド外のことについては寛容でしたが、ミーティングが長かった。シーズン中の試合前はもちろんですが、キャンプ中は練習前もやっていましたからね。そのことがすごく印象に残っています」

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