「ボールが止まって見える絶好調」を、なぜホームラン王は恐れたのか

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

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「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第13回 土井正博・後編 (前編から読む>>)

 いまやセピア色の世界となりつつある「昭和」──。だが、令和となった今もけっして色あせることのない、個性あふれる選手たちを忘れずにおきたい。

「昭和プロ野球人」の過去の貴重なインタビュー素材を発掘し、その真髄に迫るシリーズの13人目は、1962年に「18歳の四番打者」として売り出され、過大なプレッシャーを乗り越えて通算465本塁打、2452安打を重ねた土井正博さん。引退後は名コーチとしても名を馳せた土井さんが語る自身の体験は、プロの打撃の繊細さと奥深さを感じさせるものだった。

1976年、太平洋の珍しいユニフォームを着た土井正博(写真=共同通信)1976年、太平洋の珍しいユニフォームを着た土井正博(写真=共同通信)

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 "名伯楽"としての話をうかがう前に、もう少し現役時代、土井さんが若くして近鉄バファローズの4番に座った頃、打線の主軸として最も大事に考えていたことを聞きたい。

「まず、ゲームに出なアカン、ていう頭がありましたね。1年間、通して出るっていう責任がありましたので。それは4番の宿命で、最低限です。数字としては最低3割。その上で30本、100打点が理想でしょうね」

 初めて打率3割を超えた67年以降、土井さんは3年連続で3割、71年から再び3年連続3割と安定した数字を残している。本塁打は20本台が多かったものの、71年は自己最高の40本で113打点。ただ、それでもリーグ1位ではなく、同年は大杉勝男(東映)が41本、門田博光(南海)が120打点でタイトルに輝いた。

 また、67年の土井さんは147安打で二度目のリーグ最多安打ながら打率は2位で、首位打者は張本勲(東映)が獲得。近鉄時代は惜しくも打撃三部門のタイトルを逃していたことから、[無冠の帝王]とも呼ばれていた。

「なかなか獲れなかったのは、三部門、どれかひとつはいつでも獲れるわ、抜かせるわ、と安心したんが理由でしょう。だいたいボクはその時期、遊びまくってましたから。それはもう給料はようけもらえますし。エエ車乗りたい、エエもん食いたい、エエ家に住みたい。そういうことでプロに入りましたから。ホンマ、しっちゃかめっちゃかに遊びましたよ。ハッハッハ」

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