野村克也の打撃に門田博光は一目惚れした「ほんまもんのプロの打球や」
春季キャンプが進む一方で、新型コロナウイルスが静かに広がり始めた2月、野村克也の訃報が流れた。すぐに門田博光のもとへ連絡を入れたが、通院中だったため、翌日会ってゆっくり話を聞くことになった。
「ベッドでうとうとしながらテレビを見とったらピンポンピンポン(速報の通知音)鳴るからなにかいなと思ったらノムさんのことやった。少し前にカネさん(金田正一)が亡くなって、今度はノムさん。ああいう人たちは"永遠の命"というイメージがあったけど、これが現実。オレももうすぐというこっちゃ」
門田博光(写真右)にアドバイスする野村克也 持参したスポーツ紙は追悼のコメントで埋まり、なかには3番・門田、4番・野村が1枚に収まった当時の写真を添えた記事もあった。
「昨日、オレのところに連絡が来たのはここ(日刊スポーツ)だけや。最近は山にこもっとるから誰も連絡先を知らんのや。それにしても、おっさん(野村克也)は弟子もようけおって大したもんやな。ミスター(長嶋茂雄)がひまわりで自分は月見草やと言うてたけど、東京行ってからはおっさんもひまわりや。講演ブームで生き返って、しゃべるうちに理論が広まって、信者も増えた。ヤクルトの監督になってからは完全にひまわり。それに比べて関西の山奥に引っ込んでるオレは......ノアザミやな(笑)」
門田の打撃論も波に乗って広がれば......。
「20年遅いわ。少し前までは『家康待っとけ、家康待っとけ』と思うとったんやけどな。わからんか? 家康は60歳で天下取りしとるやろ。家康から遅れて3年、5年、10年......。『オレもなんかないか』と思う時もあったけど、もう家康にはなれんわ」
門田が野村を語る時の名称は「ノムさん」「おっさん」「19番」「あの人」の4つ。会話のなかで呼び名が変わるように、野村への感情もその時々で変わってきた。
門田が南海へ入団した1970年、野村がプレーイングマネージャーとなり、ここからふたりの物語が始まった。
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