大矢明彦が明かす内野陣コンバートの真相「石井琢朗を売り出したかった」 (3ページ目)

  • 木村元彦●取材・文 text by Kimura Yukihiko
  • photo by Jiji Photo

 当時、監督の大矢を参謀として支えた弘田コーチの存在は大きかったと多くの横浜関係者が証言している。星野仙一に島野育夫、落合博満に森繁和、名将は他球団からでもこれと見込んだ人材はパートナーとして招聘するケースが多い。ロッテ、阪神出身の弘田を横浜に引き入れたのは、大矢だったのであろうか。

「確かに弘田は同じチームではなかったのですが、僕は現役の時から、彼とはオープン戦でいろんな話をしていたんです。僕がコーチで横浜大洋に入団した時に、弘田も横浜の二軍でコーチをやっていて、その時に上がってきたんです。だから、『また会ったな』みたいな感じでした。

 彼は野球の見方が普通のコーチとちょっと変わっていて、すごく細かいところをよく見ているんですよ。外野手だったのですが、とても緻密に指導してくれるコーチだったんです。その代わり、言いたいことははっきり言う。だから、フロントにはあまり好かれなかったですが...。

 でも、僕にとっては、自分が持ってないものを持っている貴重な人材です。だから重用したのですが、『監督、あんなところで何でエンドランかけるんですか?』とよく言われたりしましたよ(笑)。『えっ駄目だった?』とかっていう話で。

 そういう意味でも直言してくれるのはありがたかったです。投手陣も佐々木主浩を筆頭に充実していましたし、それを指導してくれたピッチングコーチにも感謝しています。権藤(博)さんと(斎藤)明夫ちゃんがもう少し仲が良かったら、もっと嬉しかったですが(笑)」

 谷繁の育成、内野のコンバートに成功して1997年は2位。さあ、来年というときに契約が打ち切られた。無念さは推して知ることができる。

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