31歳で現役引退。ドラ1・大石達也は
なぜプロで羽ばたけなかったのか (4ページ目)
1年春の新人戦で146キロを記録すると、秋のリーグ戦では151キロを計測。1年生にしてリーグ戦初勝利を記録すると、リリーフとして欠かせない戦力になった。秋の大学日本一を決める明治神宮大会では決勝で登板している。
以降、大石はリリーフエースの道を邁進した。2学年上の須田幸太(元DeNA)、1学年上の松下健太(元西武)、同学年の斎藤、福井のつくった試合を締めくくる役割を担った。
常にリーグ優勝を狙う早稲田にとって、質の高いストレートを投げる大石は抑えにうってつけだった。しかも、チームには優秀な先発陣がそろっている。
ただし、長い目で考えると、大石自身の特性、そして早稲田特有の環境はネガティブに働いた。
当時、大石は課題を自覚していた。変化球のレベルアップだ。
大学レベルであれば真っすぐ一本で抑えられるが、さらなる向上には、投球の幅を広げることが不可欠になる。公式戦でリリーフ登板の機会があると、あえて変化球を投げ込んだ。だが、思うようにストライクを取れない。
「変化球はいいから、真っすぐで行け」
ベンチの應武篤良監督から、力勝負を命じる声が飛んだ。そのほうが抑えられる確率が高いからだ。
東京六大学リーグは、同じ相手と土日月に組まれた3試合のうち2勝すれば勝ち点が取れ、「一戦必勝」の要素が強い。とりわけ、大石が登板するのはリードした試合後半が多く、指揮官は個人の課題を解消させるより、チームの勝利を何より求めた。
それは、勝利至上主義では当たり前かもしれない。だが、大石には後悔が残っている。
「あそこで変化球をもうちょっとやっておけばなと、今思えば、思いますね」
大学ナンバーワン投手として最高評価を受けたものの、プロの壁を乗り越えられなかったからだ。
もし、アマチュアで変化球をもう少し磨いていれば、プロに入ってストレートの球速が落ちた時、活路を見出せたかもしれない。大石自身はそうした「たら・れば」を口にしないが、大学時代、自分の可能性をもっと広げられたはずだという自覚はある。
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