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31歳で現役引退。ドラ1・大石達也は
なぜプロで羽ばたけなかったのか (3ページ目)

  • 中島大輔●取材・文 text by Nakajima Daisuke
  • TOBI●撮影 photo by TOBI

 福岡大大濠高校時代に2年秋からエースだった大石は、遊撃手としてのポテンシャルを買われて早大野球部に誘われた。だが入学後、すぐに右指をケガする。「ピッチャーと一緒にランニングをしておけ」。首脳陣からそう指示をされたなかで、大きな刺激を受けたのが斎藤と福井だった。

 春季リーグ開幕前のオープン戦。ネット裏でスピードガンを持つ大石の前で、福井は150キロのストレートで三振の山を築いた。1年浪人して入学した福井の真っすぐには、「えげつない」ほどのキレがあった。

 対して同い年の斎藤は、真っすぐが速く、変化球はストライクゾーンへの出し入れが巧みだった。捕手と積極的にコミュニケーションをとりながら、配球について自分の考えを伝えていく。

「すげえわ、やっぱり」

 ふたりのピッチングから投手への思いが再びこみ上げてきた大石は、彼らの背中を追いかけ始めた。

 福井の「えげつない」真っすぐは、マネできるような代物ではなかった。一方、斎藤の変化球を参考にした。

「ツーシームとかいろいろ教えてもらったんですけど、回転するだけで(軌道的には)真っすぐが行ったりとか。合わないと思ってから、スパッとやめて自分なりにやっていました」

 器用にスライダーやツーシームを操る斎藤と、変化球をまったく投げられない自分はタイプが違う。ならば、同じことをしていてはダメだ。

 そう考えた大石は、ストレートのレベルアップを追い求めた。

「まず真っすぐを鍛えて、バッターの反応が遅れて差し込まれるような球を投げようと思いました。そこから握りやリリースの微妙な角度をキャッチボールのなかで試して、どれが一番きれいなスピンで行くかをやりながら、『これかな』と見つかりました。そうやって投げるようになってから徐々にスピードも上がって、空振りも取れるようになりました」

 当時の早大野球部には、投手コーチが存在しなかった。自分で考えながら試行錯誤したことで、大石の潜在能力は呼び覚まされていく。

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