チーム崩壊のピンチを免れた広島。會澤翼の残留がもたらす意義はでかい (2ページ目)

  • 前原淳●文 text by Maehara Jun
  • photo by Nishida Taisuke

 アマチュア時代は無名の存在だった會澤だったが、プロでは1年目から首脳陣の評価は高かった。二軍とはいえ、高卒1年目で打率.273をマークし、本塁打も放った。1年目の一軍昇格はならなかったが、2年目の春季キャンプで、ブラウン監督(当時)は會澤を一軍に昇格させようとした。ところが合流前日、守備練習でフェンスに激突し、左肩を亜脱臼。離脱を余儀なくされただけでなく、もともと脱臼癖があったため手術を決意。結局、2年目のシーズンは一軍デビューどころか、二軍のグラウンドにも立つことができなかった。

 それでも、會澤の心が折れることはなかった。3年目の2009年は、前年幻に終わった春季キャンプで一軍合流を果たし、5月には一軍デビュー。初安打も記録した。

ただ、当時の広島の捕手には石原慶幸、倉義和という2枚看板が君臨しており、會澤の前に大きく立ちはだかった。2012年は持ち前の打力を生かすため、外野に挑戦。「1番・ライト」でスタメン出場したこともあった。

その後も一軍での出場機会を増やしていった會澤だが、打力だけでなく捕手としての成長を買われての起用だった。先輩捕手の配球をメモし、何度も映像を見て研究を重ねた。捕手として、自分の色を押し出すタイプではなく、投手の特長を引き出すタイプ。なにより大事にするのは、投手陣とのコミュニケーションだ。

投手に頻繁に声をかけ、観察する。たとえ短い会話でも、表情や声のトーン、発し方などから性格や感情を読み取る。キャリアを積み重ね、広島投手陣を知ることで、捕手としての深みも増していった。

 2015年に、これまで背中を追い続けた石原の出場試合数を初めて上回り、2017年からは3年連続でシーズン100試合以上に出場。シーズン3度目の2ケタ本塁打、2年連続2ケタ本塁打は、いずれも広島の捕手としては史上初だった。

 2018年には小窪哲也前選手会長や新井、石原らの推薦を受けて、選手会長に就任。黒田、新井がチームに植えつけた新たな伝統を重んじ、"一体感"をテーマに掲げ、チームを3連覇に導いた。バッテリーを組んだ黒田や、グラウンド内外で多くの時間を過ごした新井から学んだことは数えきれない。

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