川崎憲次郎の投球に解説者が「おかしい」。不気味なほど調子がよかった (2ページ目)

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi

――野村監督就任1年目は5位、2年目に3位になって、3年目の1992年にリーグ優勝を果たしました。この3年間で、選手たちの「意識改革」は実現されたのでしょうか?

川崎 1年目は5位で、「まぁ、いつも通りだ」という感じだったんですけど、大きかったのは2年目に3位になったことです。この時に選手たちが「オレたちもやれるんだ」と自信を持ったんだと思います。戦力的にも充実し始めていた頃だったのも、ちょうどよかったのかもしれないですね。

【スタンドで観戦した1992年日本シリーズ】

当時を振り返る川崎氏 photo by Hasegawa Shoichi当時を振り返る川崎氏 photo by Hasegawa Shoichi――野村監督の代名詞である「ID野球」とは、どのような野球だとお考えですか?

川崎 ID野球というのは、要するに「頭を使え」という野球ですね。他球団と比べて、実力的には決して劣っているわけじゃない。じゃあ、どうすれば勝てるのかといえば、「頭を使う」ということ。今までそんな教えを受けたことがなかったけど、それが少しずつ浸透していったのが1992年のリーグ優勝につながったんだと思います。

――しかし、14年ぶりにリーグ制覇した1992年は、川崎さんは故障のために一軍登板は一度もありませんでした。この年について、どんな思い出がありますか?

川崎 この年のキャンプで右足首を捻挫して、早々に出遅れました。それが思ったよりも長引いたことで、焦りも大きくなっていったんです。キャンプ終盤になっても、満足に投げ込みができないから、多少、無理をしてもブルペンで投げていたら、今度は右ひじがおかしくなってきました。足をかばいながら投げたことで、その負担がひじに出てきたんです。

――この年、一軍登板はゼロでしたが、二軍での登板はあったのですか?

川崎 二軍では何試合か投げました。練習ではなんとか投げられるんですけど、試合になるとやっぱり力が入ってしまって、投げると痛みが出てきました。それで、「やっぱり痛いです。投げられません」ということの繰り返しでした。

――チームは激しいデッドヒートの末にセ・リーグを制覇。日本シリーズに進出したものの、川崎さんは何もできないまま、仲間を応援することしかできなかったと。

川崎 そうですね。この年の日本シリーズは、神宮で行なわれた試合はスタンドで観戦していました。プロ野球の世界に入って、一度も日本シリーズを経験することなく引退していく選手もいます。せっかく、自分の現役中にチームが優勝して、日本シリーズに進出したのに、「どうして、オレはあの場にいないんだ」という思いばかりでしたね。

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