中日・大野雄大の運命を変えた試合。
「もう辞めたい」→ドラ1になる (2ページ目)
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それから毎晩、同級生と自宅近くの河川敷を走るようになった。野球だけでなく遊びにも一生懸命な大野ゆえに、母は「続かないだろう」と思っていたそうだが、その読みを見事に裏切り、その結果、1年後のある大会で無四球完封。その活躍が京都外大西の監督(当時)だった三原新二郎の目に留まり、大野の野球人生はさらに広がりを見せた。
「僕はいつも最初につまずいて、そこから『くそっ!』って這い上がっていくタイプ。うしろから、先を行っているヤツを追いかけるほうが燃えるんです」
京都外大西でも悔しさの連続だった。2年生の夏、チームは甲子園準優勝という大きな結果を残したが、脚光を浴びたのは1年生のリリーフ本田拓人で、背番号1を背負っていたのは大野と同級生の北岡繁一だった。
また、優勝した駒大苫小牧では2年生の田中将大が大活躍し、決勝戦も大野はベンチから見つめていただけで、登板のないままその夏は終わった。
悔しさのなかで迎えた新チームの秋の大会。大野は京都大会で奮闘し、3位決定戦では15奪三振の快投でチームを近畿大会へと導いた。しかし、センバツ出場をかけた近畿大会では、またしても登板なし。
のちに「高校時代ではあの時が一番悔しかった。やっぱり自分には信頼がないのかと......」と振り返った時期だ。
冬には再びこの悔しさを力にし、厳しい練習に励み、翌春のセンバツでは先発を任されるも初戦敗退。
最後の夏を迎えるにあたり、大野はブルペンで"10球連続ストライク""7球連続(右打者の)インロー"などノルマを課し、とにかく投げに投げた。
そして迎えた京都大会。チームは順調に勝ち進み、準々決勝で京都すばると対戦した。その試合、大野は2点ビハインドの8回裏から登板。劣勢のなか、大野は雄叫びを上げながら力投すると、その気迫がナインにも伝わり、9回表に打線が爆発し逆転。2年秋から監督を務めていた上羽功晃が「高校時代の大野のベストピッチ」と評した投球で勝利をもぎとった。
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