2019.04.16

土橋勝征が守備固めで危機一髪。
秋山幸二の打球に「やっちゃった」

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi

西武×ヤクルト “伝説”となった日本シリーズの記憶(23)
【伏兵】土橋勝征・前編

(前回の記事はこちら>>)

 四半世紀の時を経ても、今もなお語り継がれる熱戦、激闘がある。

 1992年、そして1993年の日本シリーズ――。当時、”黄金時代”を迎えていた西武ライオンズと、ほぼ1980年代のすべてをBクラスで過ごしたヤクルトスワローズの一騎打ち。森祇晶率いる西武と、野村克也率いるヤクルトの「知将対決」はファンを魅了した。

 1992年は西武、翌1993年はヤクルトが、それぞれ4勝3敗で日本一に輝いた。両雄の対決は2年間で全14試合を行ない、7勝7敗のイーブン。両チームの当事者たちに話を聞く連載の12人目。

 第6回のテーマは「伏兵」。前回の西武・笘篠誠治に続き、ヤクルト・土橋勝征のインタビューをお届けしよう。

セカンドのレギュラーになるまでは外野も守っていた土橋 photo by Kyodo News左投手対策、守備固め要因として臨んだ日本シリーズ

――1992年、1993年の日本シリーズ。土橋さんにとってはプロ6年目、7年目に当たりますが、当時のご記憶はありますか?

土橋 そうですね。ポイント、ポイントかもしれないけど覚えています。当時は、ベテランの八重樫(幸雄)さん、杉浦(享)さん、角(富士夫)さんがいて、そこに若手の池山(隆寛)さん、広澤(克実)さんが出てきた。さらに古田(敦也)さんが入ったり、飯田(哲也)が出てきたり。チームの雰囲気が変わって、若返り始めていた時期ですね。

――後に土橋さんはセカンドのレギュラーになりますが、当時は外野も守っていました。この頃に発行された『日本シリーズ公式プログラム』を見ると、「内野手・外野手」と書かれていますね。

土橋 でも、この頃はほぼ外野の方がメインでした。僕はずっと内野だったのに、野村(克也)さんが監督になって、「外野を守れ」と言われたんですよ。理由ですか? 当時、ライトの秦(真司)さん、レフトの荒井(幸雄)さんが、ともに左打ちだったんです。だから、相手が左ピッチャーのときに、「右打ちのバッターがほしい」ということで、僕や橋上(秀樹)さんに白羽の矢が立ったんだと思います。

――土橋さんと橋上さんの併用に当たって、それぞれの役割などはあったのですか?

土橋 いや、特にはなかったですけど、2人準備させておいてどちらか一方を残しておきたい。そういう狙いだったと思います。それまでは(小川淳司)監督との併用で、天秤にかけられていたときもありましたからね。

――もともとは内野だったのに、外野として守備固めの起用も多かったですよね。外野手の練習はプロに入ってからですか?

土橋 もちろんです。中学のときはピッチャーだったんですけど、投げないときにセンターを守るぐらいでしたから。この当時は、野村さんとしては「バッティングは、まだそこまでの実力はない」と感じていた部分があったんじゃないですか? 当時の僕は一軍の試合にずっと出ていたわけじゃないので、「勝つ」とか「負ける」ということよりも、とにかく自分のことで必死でした。